嶺北の山々

畑のシーズンを迎えるに当たり、山へ行くことにした。代掻き前の綺麗な汗見川を上へ上へと県境の峠まで。1時間ほどで登山口に着いた。

花も新緑もまだだったが、本当に静かで久しぶりに心が休まった。昼過ぎから登り始めたので、時間的に無理をせず、大森山で引き返すことに。前日まで丸太を運んだり割ったりしていたこともあって、体力的にも十分だった。

長閑なところですねと言われるような中山間地で暮らしているのに、更にまた山に登る。ただ歩くことに専念できるということ、ただ景色を楽しめることって、仕事や責任に追われる日常では中々叶わないものだ。とはいうものの、最近の私といえば、土地の手入れが大変でも面白くなってきており、それは藪がだいぶん片付いて光と風が通り、残した木々がいよいよ立派に栄え、木漏れ日や新緑を十分楽しめるようになってきたからだろうと思う。手を入れた後の清々しさや、その仕上がりを眺めるのも山登りでは味わえない良さがあるのだ。

嶺北に移り住んで20年が経った。だからどうということもないんだけれど、ちょっと振り返って物思いに耽ったりもする。日当たりの悪い雨漏りのする家で7年暮らした後にようやく南斜面に建つ家と土地が見つかり、手入れを続けてきた。山に呑まれていたところを今の状態にするまで10年以上かかってしまい、果たして、これからの20年でどこまで持っていけるか。

同じ集落の還暦を過ぎた農家さんが花のなる木をたくさん植えているのを見て、ああ、子や孫のことを想って桃源郷を作ろうとしているのかなあとしみじみ思ったりもする。子を授からなかった私たちは、この土地において一代で終いをつけることになるけれど、それもまた人生ということで、私は私なりにここに楽しみを見出していきたいと思っている。

装備はいつもの一泊分。弁当作って非常食は手軽なクスクス。

道中、山の至る所に植林の大規模な皆伐が進んでいた。大胆過ぎやしないだろうかと心配になる。

畑のようす〜4月上旬〜

今シーズンはゆっくりスタート。種を注文してから届くまで20日かかったこともあり、例年よりも遅蒔きです。

久しぶりに我が家のノラ2匹について。

ひょっとしたら、チー坊の方がQ太郎よりも狩がうまいのかもしれません。かなりの頻度でウサギを仕留めてきます。ある日、いつもの腹減った〜というような情けない声で帰ってきたQ太郎。飯ぃ〜とそのまま土間に直行すると思いきや、家の手前で何やら興奮して食らいついています。自分が獲ってきたならあんな情けない声は出さなかったはず。おかしいぞ。チー坊は?と見れば、口元を真っ赤に染めてさも満足そうにうとうと余裕。やはり、それはチー坊の獲物。構んの?嫁が抱えてその貪りつくQ太郎の近くに遣っても、全然お構いなし。王者の風格さえ漂わせています。二匹独特の協調関係。

そんなでも可愛いQ太郎。食べる事が大好きな心優しい奴なのです。ただ、それが祟ってときどき悪いのに当たってもどしたりして。大事なければいいんですけど。

 

白ネギのピクルス

春になり、とう立ち始めた頃が一番美味しいと感じる白ネギ。葉色も甘みも瑞々しく、栄養も高まっている感じがします。今年もたっぷり詰め込みました。

大根のレリッシュ仕上がってます

新たに栄養成分表示を加えることになり、その作業で瓶詰めできてからお知らせが遅くなりました。冬の間、凍れるほど蓄えられた美味しさを、鬼下ろしで料理に馴染みやすくしました。ミートソースのグラタンに添えるのが私の一番のお気に入りです。

春になり、雨になり、動き出す

寒く乾燥した季節も終わり、風が温み、雨が降っている。

この冬は町内でも火事が多かった。あまりに乾燥していると、草刈り機やチェーンソーの歯が石か何かに当たって出た火花でも起こるらしく、重機にハンマーナイフモアをつけて刈っていた現場の火事はそれだったようだ。力技な分、余計に気づかないのだろう。野焼きによるのものは相変わらず毎年のように起こる。聞くところによると、同じ人が起こしているようだ。消防団に入っている知人が呆れていた。あれから、火事には敏感になった。日暮れ間近、積んでおいた竹を短く切っていると火花が見えてひやっとした。煙は出ていないか、一度帰ってからジョロ片手に再度確認に行った。

5年以上前に伐って積み上げておいた竹と杉の丸太が崩れ落ちていく夢を見た。雨に濡れ、いよいよ朽ちゆく様がありありと見えたのだ。まさかとは思うが、急斜面なので他人の土地まで転げ落ちるかもしれない。谷を一直線に降ってゆくコールゲートは鬼門だ。

矢も盾もたまらず、辺りが白み始めると現場に行った。流石に夢に見たほど切迫した状態ではないようにも見えるけれど、支えにしていた切り株も頼りなく傾き、もはや予断は許されない。そう思うべきだろう。春になれば嵐も来る、虫も出てきていろんな事が一気に動き出す。

いろんな片付けに追われるけれど、種を撒かなければ始まらない。先の先の今のためにあれもこれもがある。春は忙しい。

殆どが一株そのままの長さで3メートルほどの高さまで積んであった。踏み外せば埋まってしまうかも。手に追えなくなる前になんとかしなければ。

(2017年3月)

白ネギの仕込みもしなければならないが、今日も午後から雨の予報。杉の丸太に取り掛かることにした。

上に積んだ竹を避けていくと丸太が顕になってくる。自分で伐った後だからできる作業。人のやった後なら頼まれてもやりたくない作業だ。できる限り玉切りして搬出した後、ロープで確保しておいた。ようやく安心して寝られる。

春の道作りが無事おわりました

伐ったのは山側の杉3本。だいぶん明るくなってきた。

(今年1月13日時点の状態)

前日は雨だったが、当日20日は晴れ、少々風があったものの支障をきたすほどではなく、地域の協力もあって、片付けまで無事終えることができた。

崖の上と言ってもいいところに生えており、いかに安定して寝かせられるか、中途半端では終われない、本当に難しいケースだった。加えて、ケーブルに枝がからんでいたこと。2株が密接して生え、片方が斜め後ろ谷側へ傾いている起こし木であったこと。滑車を取り付ける立木が限られ、牽引方向がベストではなかったこと。それぞれが伐根直径60センチ前後の大径木であったこと。11月に一度、牽引具をセッティングしてラインを確かめ具体的にイメージしたところ、いかに問題を孕んでいるか解って仕切り直すことに。普段の畑仕事にはない種類のリスク。誰に頼まれたわけでもないが、正直なところ、もう勘弁してほしいと思ったものだ。搬出も危険を伴い、重労働になる。

万全を期すため、2本とも登ってワイヤーを枝の上の充分高いところに取り付けて牽引し、手前の一本は楔だけで倒した。スケジュール的に半日に3本は難しかったが、入念に対策を練り手持ちの手段を増やしていたことで、落ち着いて進めることができた。

次の冬までこのまま置いておく。全てを片付けるまで、まだまだ安心はできないが、兎にも角にも、無事に倒れ、安定した状態で寝てくれたことは大きい。皆が見ている前でする作業。誰から見ても安心感のあること。作業が淡々と進められ、無茶をしていないと見てとれるかどうかが今後にかかっている。手入れすべき山が集落の中にあり、急斜面にあるということがいかに困難であるか、知らぬままに借りてしまったことを、今更ながら、なんとも危うい若さであったかと思う。そこが植林になっていることそのものが異常だということさえ知らなかった。

周りの植生が豊かになれば、畑も良くなる。それは逆に言えば、周りの手入れをしなければ畑はよくならないということだ。借りた農地は東西を深い藪に囲まれており、南斜面にあっても日照が足りないということを後から知った。実が満足に着かなかったのだ。薮は獣の棲家になるばかりでなく、虫の温床にもなるし、湿気を溜めてしまう。気の流れが悪いというような観念的なことを持ち出すまでもなく、そこで農業を生業とするのは厳しい。

石鎚の麓で発酵茶を作ってきたご夫婦の言葉が印象的だった。村を去る人々が山を植林に変えてしまってから次第にうまく発酵しなくなった語っていた。自分の手の届く範囲でもいいから、この暗澹たる混沌を払拭できるものなら払拭したい。少しでも、この先きっと良くなると思えること、将来を楽しみにできることが生きるためには必要だ。にしても、一つ一つが実に重い。ひとりの人力で大径木を片付けられるのは40代までだろうか。時間が限られていることを嫌でも思い知らされる。美しいと思えるところで暮らしたい。

7days Hotel さんに

高知市はりまや町にある7days Hotelさん

この度ありがたいことに、laatikkoという、溢れんばかりの思いが詰め合わされた素敵な箱の一品として、また店内のショップにも置いていただけることになりました。

その成り立ちからも市内の他のホテルとは一線を画すセンス。今回うちのピクルスを紹介してくれた友人が長年勤めていたり、マーケットで知り合った作り手さんが働いていたり、以前私たち夫婦も市内に泊まる際に何度か利用させて頂きましたが、その際にも若いバックパッカーの女の子が泊まっていて、その緊張と期待の入り混じった表情が印象深く、そういえば、東京に住む義理の妹もいつどこで知ったのか高知出張の際にはよく泊まっていたと後で聞かされて驚いたり、いろんなところで共感を呼ぶ居心地の良いホテル。

プライベートでゆっくり思い思いの滞在が可能な、キッチン付きの広い部屋を新しく作られたそうです。

枝打ち〜その2〜

カーブミラー脇の弱っている杉については手前へ、道に沿って倒す予定にしており、ガードレールに当たりそうな枝を打っておく。枯れた太い枝そのままではいつ何時落ちるかわからないので、いずれにせよ暫時片付けておかなければならない。藪の手入れを一旦始めたならば状況は変わり、次から次へと責任が生まれるのだ。

今回は車道に打った枝が落ちないようロープで確保しつつの作業となる。他の仕事の傍ら、これまで2日に分けて少しずつ切り上げてきた。木が健全でないため、皮が剥がれかけていたり樹脂が染み出していたり、枯れ落ちた枝の痕の出っ張りも厄介で、胴綱をしゃくり上げていく際に死角となる裏側が引っ掛かって思うようにいかない。命綱を頼りに胴綱のテンションを一旦緩めて引っ掛かりをとるのだが、その作業は樹幹と自分との角度が浅くなって足元が不安になり、余計にエネルギーを食われる。

3日目は写真下の地点から六本ほど打ち、自分の身体もうひとつ分上まで登ることになったが、そこまでになると樹幹は結構細く形もより歪に。高度が上がれば上がるほど必要以上に緊張し神経をすり減らしてしまう。新たな作業が加わって樹上にいる時間が長くなり、集中力を維持するのが大変だ。アンカーとする上方の手の届かない枝へロープを掛けるのに手間取って、自分の確保が疎かになる。一瞬でも樹上にいることを忘れてしまいそうになったことに慄き、足元の爪と胴綱の状態を確認する。手が届くところまで一旦登って掛ければいいのだが、そのためには、落としていない枝を跨ぐために胴綱を一旦外して掛け替えなければならない。今の装備でそれは難しい。やるほどに改善点が明らかになってくる。信頼できるハーネスと命綱、胴綱を掛け替えるシステム。不測の事態を念頭に入れるなら下降機も予備のロープも必要だ。ロープの色を変えることも大事だろう。

打つ枝も、物によっては太く片手で保持するにも大変な重さになるので、それを樹上で扱うのもまた神経を使う。ロープを手繰り寄せる際にぶら下がっている枝が爪にあたる。そんなことひとつ一つにすり減らされるのだ。

とにかく忘れないうちに少しずつ経験を積み、シンプルな道具で基礎を学ぶ。そしてシーズンの終わりを良いイメージで締めくくりたい。

枝打ち

今シーズンの山仕事もいよいよ大詰め。春の道作りで伐る支障木は、枝が光ケーブルにかかっているため、事前に枝打ちをする。農業にも通じることだが、山においても何とかなるだろうといった根拠のない自信や楽観、そして、自負は危険だと戒めている。

言うまでもなく枝打ちは樹上に登って行うわけで、おいそれとできるものではない。いずれはと思うものの、やれるとも、やろうとも思えず随分経った。知っている事といえば、特殊な爪を靴に装着し、胴綱を使って登るということぐらい。一冊の本に一通りの方法や必要な道具がのっていればとっつき易いのだが、そういった種類のことでないのはわかる。とにかく、よく使われているらしいメーカーのものを取り寄せた。説明書きはないに等しく、特殊用具のため熟練者に適切な指導を受けるようにとのこと。そして、別途、墜落防止器具をつけるようにと書かれていた。しかし、どれが適合するとかいった具体的な案内はないし、製品ラインナップをみてもマッチしそうなものはなかった。まあ、そういうものだろう。敷居は高くあって然るべきだ。

一般的にはどのように使われているのか。林業の現場ではこれまで胴綱を安全帯と称し、墜落防止器具といったものはなかったようだ。そもそもが特殊な仕事、無理と思うなら就いてはいけないし命の補償を誰かに求めてもはじまらないのだろう。山の仕事はきっとそんな事ばかりだ。とはいえ、根が怖がりにできている私としては、手間取ってでも安全を確保したいし、胴綱と爪のついた履物だけではあまりにも心もとない。安心を求めれば求めるほど海外の高価なクライミングツールがあれもこれも必要になりそうだ。樹種によってはいずれそういった道具も必要になると思うが、それはおいおい。以前、椰子の木に登る少年の映像を見たことがあったが、彼は裸足で胴綱一本で昇り降りしてたっけ。

墜落防止器具にかわる命綱を自分なりに用意する。ロープワークの本を参考に、作った輪に脚を通し上体に結び付けて、家の梁から吊り下がってみたのだが、自重でどんどん締め上げられ、痛たたと思わず声を上げてしまう。と、振り返れば、嫁が爆笑して泣きそうになっている。いやいや、こちらは真剣なのだ。試行錯誤を繰り返し、実際に立木で試して、それなりに命を守ることはできそうになった。

思っていた以上に、靴に装着する爪の扱いが難しい。木に対する角度が甘いとグラグラ不安定になり、ともすれば食い込みが外れて体を支えられなくなる。胴綱はその爪の当たる角度を保つ姿勢をとるためのものであって、落下を防いでくれるものではない。この登り方は体重のほとんどを爪に託しているから、そこに一定の信頼を置けなければとてもではないが樹上高く登ることはできないし、いわんや作業をやである。胴綱を取り付けるベルトのズリ上がりも気になった。一日目は枝を一本切ることさえ出来なかった。不安がとてつもなく残った。命綱の改良と、なぜ爪が安定しなかったのかを考え、安定させるためのポイントを整理する。いたずらに下手を繰り返せば膝も痛めてしまいそうだ。

翌日は珍しく頭痛が出た。寝込むほどではないが仕事にならない。樹上の空っ風で冷えたこともあったが、相当力んで体力を消耗していたようだし、緊張がとれずうまく寝られなかったからだろう。

日を改め、体力と集中力と相談して少しずつ進める。踏み外すことはほとんどなくなったし、胴ベルトのずり上がりもさほどではなくなり、二日目は枝を一本落とすことができた。三日目は二本以上落とすことができた。適切なところに適切な角度で一歩一歩確かめ、胴綱を操り、命綱をその都度、確保する。むやみに緊張するのではなく、抑えるべきポイントに集中し、作業手順と型を構築していく。踏ん張る足元が大丈夫かベクトルは合っているか、作業しつつ足裏の意識を忘れないようにする。それでも時折不安定になって緊張で気が遠くなりそうになる。樹表の歪なところは爪の当たりが悪くなるのだ。枝打ちのあと、特に枝が密集していたところは足の踏み場がないほどで、そういったことを樹上で気付く。気持ちを落ち着かせるのに一苦労しながら迂回ルートを探す。その後はルート取りをより入念にイメージするようになった。数日かけてなんとか問題となる枝を全部落とした。

気が遠くなると言うのは、頭と精神がキャパシティーを超えてショートするような感じだ。緊張から解放されたいという誘惑がふとよぎる。人によってはそれを甘美なものとして酔っ払い、ふらっと一線を越えてしまうのだろうか。どこかに意識が飛びそうになったり、何か他のことを考えて集中が切れそうになったりするのも、心と身体がばらばらな逃避行動なのかもしれない。それを拒否して思いとどまる。その思いとどまるにもエネルギーがいることを改めて知った。

思い出すのは小学生の頃、確か10歳ぐらいの出来事だ。学校から帰って家がたまの留守にもかかわらず鍵を忘れていたことが何度かあり、はじめこそ親や兄が帰るのを待っていたものの、怖いもの知らずで身軽さを自負していたわたしは、2階の窓が空いていることを幸い、雨樋を伝って庇から窓に取り付き、家に入ったことが何度かあった。当時の我が家は山を切り開いて造られた新興住宅地にあり、斜面に擁壁を立ち上げたその上に建っていた。下はコンクリートにタイル張りの階段だったのだから、危険極まりないことをしていたわけだ。そして、ある日もまた味を占めて取りついたところ、いつもの窓に敷布団がかかってあった。それが何を意味するのか察知できなかったわたしは、取り付いてはじめて、力が入らないことに気がついた。

自分の頭より高いところに取り付いているわけだから、足は既に庇から離れている。いつもなら上半身を使って肘をかけるところまで持っていき、あとは足をかけてよじ登るだが、そのはじめのところが滑って思うようにいかない。ともすればずれ落ちそうになる。駄目かと一瞬よぎった。庇に降りようとすれば、後のない足場と壁との隙間を布団が邪魔をして勢いそのまま落ちてしまうのは明らかだ。シーツを掴んであえなく落ちてしまうのを想像した。しかし、若さゆえの瑞々しい執着というのか、諦めず登りきることができた。

幼少からのいろんな無茶は無意味ではなかった。とはいえ、何か、一つまた一つ、与えられた限りある幸運を食い潰してきたようにも思う。歳を重ねヨレた感のある今、あの頑張りを、運よく、当たり前の如くまた発揮できるだろうか、疑ってしまうのである。もはや安易な自負はできないということなのだ。あらかじめ作業負荷に対するリミット(制限時間)を設定しておく必要がある。

登山における事故というのはベテランであるか初心者であるかにかかわらず平等に起こり得ると言われているらしい。山仕事においても、ケースはひとつひとつ異なるし、リスクの高い現場では精度が求められ毎度改めて怖いと感じる。実際のところ絶対に大丈夫ということはあり得ない。つまり、難しい木がその時うまく倒れたとしても、伐れるようになったということではない。経験を積み、次なる課題に直面した時、それを伐ろうと思えるかどうかでしかないのだ。

こういった仕事は怖がりで慎重過ぎるくらいが丁度いいのだろう。不安要素をあれもこれもと先回りして並べ立てるほどの怖がりであり、それらを漠然としたままには進めないほど慎重であるということだ。その時点で気付かない危険については、至らなかった自分の力量ゆえ仕方がない。とはいえ、仕方がないでは済まないから、年数をかけて経験を積み、抜けているところがないか考え続けるのだ。そして、甘さや余計な危険が生じないよう、一人でやる。

危険なことを何故自ら進んでするのか。一言にはまとまらないが、見失いたくないものがそこにあるのは確かだ。単なる度胸試しではないし、蛮勇は望むべくもない。通過儀礼として、非常な試練を自らに課すというのとも違う。わかったふうなことを言いたくはないから、謙虚にならざるを得ない状況に身を置く、自分にとってはそんなことの一つなのだ。だから、今回頑張ったから十分ではなく、身体が許す限り続けなければならないのであるが、とまれ、根が気分屋でストイックに出来ていない私としては今シーズンはもういっぱいだ。気を取られてこの冬はほとんど自転車に乗れず、また膝や腰に不安が出てきた。ほとほと、コンスタントに続けることが苦手な我が身であることよと、ついぼやきが出てしまうのであった。

 

生姜の醤油漬け

良質なしょうゆに黒糖のコク、そして、鰹節と昆布の旨味。生姜の香りも高く、とても濃厚に仕上げてありますので、お料理のアクセントだけでなくベースにもお使いください。