山登り」カテゴリーアーカイブ

初雪の工石山

昨日、麓はみぞれ混じりの雨。山の上は雪でした。雨が止んで晴れ間が見えても風が冷たく、外での作業はかなり冷えました。雪化粧をした峰々を見るとそこへ行きたくなります。

翌日の天気は晴れ。気温もあがる登山日和ということで、近所の工石山へ。朝起きると、家はすっかり冷え切っています。薪ストーブに火を入れ、湯を沸かします。路面凍結が恐いのでお昼頃に向かいました。駐車場にはかつてないほどの車。山は老若男女で賑わっておりました。おばちゃん達はおしゃべりを楽しみ、小さい子がビッグサイズのカップヌードルを美味しそうにすすっています。休日は山で憩う。そんな趣味を持っている人たちが結構いるんですね。

木漏れ日の中、溶けた雪がキラキラ降ってきます。

 雪に縁取られた木々

山が好きだと連呼する嫁

静かな時間

ブナの森でテント泊

紅葉シーズン深まるにつれ、どっぷり山に浸かりたい欲求が高まってきました。昨年登った三嶺を含む剣山系は熊出没情報が目立つので、地元の山へ。汗見川沿いを登っていきます。(11月3日)  眼下の深い谷を流れるのが汗見川。伊予三島へ通じる峠の、その過酷さからついた名前と聞いたことがあります。

12時過ぎに登り始めたので、すぐ陽が傾いてきました。普通ならば下山する時間。すれ違うベテランさんにすれば今から?という感じ。テン泊であることを告げると得心の笑みが返ってきました。早く目的地に着かねばなりませんが、暮れゆく中を歩くのは好きです。遠くで鹿が鳴いてます。 今回は佐々連尾山(さざれおやま)の先にあるブナの森に泊まる予定。張れるところがあるのかどうか、行ったことがないので不安は残ります。水場はないので4ℓ用意しました。(結果、一泊二日で残り0.5ℓ)

 とてもいい場所が見つかりました。無事に張り終え、さて、これからが楽しみの時間。下山を急ぐ必要はないのです。

夕食は弁当。予定では昼が弁当で夜は米を炊いてカレーだったのですが、仕事の疲れが残っていたため朝は無理をせず、登りはじめが12時近くになったので昼は行動食とパンで済ますことに。ロープ場が所々あるアップダウンを4時間ほど歩いた後、煮炊きせず食にありつけるのはかえって助かりました。ご飯を食べながら、最近ニュースになっている遭難について何気なく話していると、気づけば嫁から笑顔が消えています。しまった、またやってしまった。とにかく、すまん。根が健やかな嫁はすぐに気持ちを切り替えてくれるので助かります。やれやれ。

張る際にあたりを調べても鹿の糞は見当たらないし、気になる気配もなかったと思います。逆に、静かすぎるほどで、風も、上では強く吹いているのに此処はそよぐ程度。気温も過ごしやすい。もちろん、私たちの他に誰もいません。何も不安になる必要はない筈です。とはいえ、私だってそれなりに緊張はします。テント泊はどうしたってワクワクドキドキ。

どこでも眠れる人はいいのですが、私も嫁も苦手。下山後に我が家の布団に入った時が極楽と思う方です。毎度長い夜を過ごすことになるのですが、今回は何も考えず只うとうとする時間を楽しもうと思いました。夕食後はまず横になることに。やはり眠れません。

テント内に敷く銀マット、今回は銀の方を表にしてみたのですが、それがいけなかったようで、わずかな傾斜なのに、その上のエアーマットが滑ってすぐズレ落ちてしまいます。直してはズレるの繰り返し。一方の嫁は何の問題もなく安定している様子。さぞ、横で鬱陶しかったことでしょう。輻射熱があるから銀を表にするという話ですが、暖かさはあまりかわらない感じです。そもそも熱源の無いところでは?ですし、下から上がってくる湿気や冷気をまず防ぐという目的では、やはり銀のフィルムが下の方が理にかなっていると思うのですが、、、。結局敷き直すことにしました。

狭い中、荷物をどこに置くかも重要です。私の場合は毎度ザックを空にして足を突っ込むのですが、今回は腰痛が気になってしっくりきません。足元に寄せたところ、それも具合が悪い。整体で膝下にクッションを入れてもらうことを思い出して、そのようにするとようやく落ち着いて眠れるようになりました。枕は取り外しのできる雨蓋に衣類を詰めて。そうこうしているうちに、いよいよ夜の帳が下りたようです。

外に出れば、月明かりに照らされた静かな森が佇んでいます。紅茶でも淹れようか。アルコールストーブで湯を沸かします。もみじ饅頭が美味しい。カサカサ葉の落ちる音がします。

さて、冷えないうちにテントに戻りましょう。寝袋に包まりながら星空が見れたらいいのに。また鹿の鳴き声がしましたが、ビバークの時と違い、蹴られてテントが谷に落ちる心配もないので、まあ落ち着いて寝られそうです。

夜明け。外気温は5℃  POUSSERさんのパンとコーヒーの朝ごはん

 嫁、歓喜の図。

嫁が、ブナ爺にまた会いにきますと言ってます。

腰痛明けの山行

初めてビバークした山へまた来ました。

四十にして惑わず、という言葉を改めて紐解けば、「惑う」は、ただ、おろおろするという意味だけでなく、

「平常心・(初志)をかき乱すような事に心を奪われる」

とあります。倫理(行動の規範としての道徳観や善悪の基準)や良識(健全な判断力)では動かない世間において、平常心はいかに揺らぎやすいことか。

先日友人からあるショックな出来事を聞かされたのですが、歳を重ねるごと色濃くなっていく個々の人生、仕方がないと思いつつも、つい考え込んでしまいます。それぞれに異なる根っこ。それぞれの生き方。山仕事で身体を疲れさせても夜中に目が覚めてしまい、いよいよリズムを取り戻さないと身が持ちません。山登りをして一度リセットしたいと思いました。思考を健全に保つには花鳥風月が必要です。

山行前夜、21時前に就寝で目が覚めたのは0時半。弁当を作り、2時に再度布団に入って6時起床。結局登山口に着いたのは10時過ぎ。無理をせず途中で引き返す前提で登り始めました。

ゴーヤと生姜は塩揉みして搾ってから少量の梅酢と醤油で風味付け。インゲンはソーセージと一緒に茹でて粒マスタードで和えておけば即席のピクルスに。定番の卵焼きは今回砂糖を使わず、卵6個に対して味醂と醤油を合わせたものを100cc。しっとり甘くて山弁当に最高に合いました。

山の静寂には毎度、新鮮な感動を覚えます。ここに来なければ得られなかった静寂。遠くに三嶺が天狗塚が見えます。

刻一刻と変化してゆく陽光。辺りにキツツキの音が響きます。遠くで鹿の鳴き声がします。暮れ行く緊張感が嫌いではない私。長居したいのを堪えて4時に下山。

瓶ヶ森へ

集落では田植えの一区切りがつく6月中旬、道作り(草刈り、側溝や谷に溜まった土砂・芥とりなど)が先日終わり、畑仕事もあと少しでひと段落つきそうです。山行は秋の三嶺以来。

吉野川の源流と言われている瓶ヶ森は、我が家から80キロ少し、車で2時間ほどひたすら高度を上げていきます。林道に入ると、落石や路肩が落ちかけている箇所が至る所にあり、気軽なドライブとはいきませんが、景色は此処ならでは、毎度来て良かったと思えるところです。

 

三嶺テント泊、そして小屋泊

11月8日はこの秋最後のチャンス、再び三嶺を目指すことにした。一泊二日の予定。

話し合いを重ねた結果、殆どの登山者がしているように朝6時には登山口に着いて早く登り始める、それが必須だろうという結論に至った。となれば、2時半ごろには起きて3時には家を出なければならないし、前夜のうちに弁当を作りパッキングまで済ませておかなければならない。なんと気合のいる休日であろうか。21時には就寝、何とか起きて3時半には出発することができた。

西熊渓谷に着く頃には夜が明け始め、無事光石登山口に到着。6時半、朝露の中登り始める。風は穏やか、空は青い、最高の登山日和。前回引き返したポイントを通過、ついに三嶺を間近に望んだ。弁当がうまい。

最後は急登。鎖場と整備されてはいるものの躓いたり転けたりしたら落ちそうな道が続く。大きな浮石もあり、落石も起こりうる。人が怖がるのを見ているとこちらまで不安になるものだが、平常心であれば注意力も発揮できる。そう、自分に言い聞かす。ただ、荷物が重いとやはりバランスを崩しやすい。泥土のついた靴底で岩の上を歩くと滑る。

14時、何とか無事頂上へ到達した。家を出てから10時間半、コースタイムは7時間半と言うことになる。(地図などに載っている参考タイムは5時間半ほど)

なんと素晴らしい天気であろうか。静かで、見渡す限り山々が連なり、遠くに海が見える。間違いなくここは四国で最も美しいと言われる山であった。コーヒーを淹れ、パウンドケーキで一服。嫁のパウンドケーキはクラシックなレシピで、卵、砂糖、粉、バター、全て同量。シンプルに1パウンドずつという意味でパウンドケーキというらしい。山仕様はそれにチョコやローストした胡桃を加えてパワーアップしてある。

山登りでカロリーを思った以上に消費するのは、重い荷物を背負って長時間歩くからだけではない。はじめての道に迷いつつ地図を見て必死に答えを探したり、思った通りに行かなくて不安になったり、緊張したり、そして、風に当たり続けて冷えたり。頭を使うこと、感情をコントロールすること、変動する天候下で身体を正常に保つこと、一つ一つにかなりのカロリーを要するのだろう。慣れないうちは尚更だ。そんなことに改めて思い至る。

十分休憩したのち、ヒュッテのあるところまで下ってテントを張る。笹原の中に張ってはいけないとなるとごく限られる。道沿いに1カ所空いていた。誰かが張り綱を止めるのに使ったであろう頃合いの石が置いてある。風を避けられるような地形ではないので、風向きが心配。しかし、北西からと思えば北東に変わりまた北西。前回の尾根筋は夜通し北東の風であった。先客のテントが一つ北西向きに張ってあるが、どうしたものか。天気予報を確認する術がなかったので、結局、ヒュッテが建つ向きに倣い、北東の風にあわせて張ることにした。入念にペグダウン。思っていたより刺さりやすかった。日が暮れ始めると一気に冷え込み、まだ暗くなりきってもないうちからフライシートに降った夜露が凍る。

晩御飯はクスクス。手軽な市販のペペロンチーノの素に加えて、挽肉にたっぷりの生姜とカブ菜を醤油と味醂で甘辛く煮詰めた常備菜を和えて食べる。少しでも野菜が有難い。身体を冷やしてしまうと寝れなくなるので、皆既月食についてはほどほどに、タイミングが合えばで寝袋にくるまった。

有難いことに風は穏やかだったものの、気温はさらに下がっていった。冷気が寝袋を通過して身体に降ってくる。カイロをお腹と腰に貼って、カッパも着込んで何とか過ごせるように。嫁もシュラフカバーを新調したが、それでも冷えるようだ。眠れない。ならばと星空を楽しんだ。一旦影となった月が復活し始めるタイミング、天の川も美しかった。足踏みしたり、体操したり、凝った身体をほぐす。同日、白髪山はマイナス五度であったらしい。更に100メートル以上標高のある三嶺は尚下がっていたことだろう。ちなみに、嫁が持っていたキーホルダーのような気温計は0℃からテコでも動こうとしなかった。

少しは寝ただろうか、月明かりの中、朝焼けがはじまった。

二日目は、三嶺から稜線を西へ、大タオ、西熊山、お亀岩で水を汲んで、綱附森方面の稜線伝いに下山する予定であった。お亀岩まで無事に到着。地図で先を確認する。お亀岩から西へ一つ目のピークより稜線を伝って南下し、途中尾根分岐を一つやり過ごしてから谷へ下ってゆく。お亀岩から見える稜線を目指して進んだ。その先にある天狗塚や天狗峠は多分、あれとあれだろう。

向かう先にはツツジの群生があり、迂回する笹原には無秩序に道ができている。ショートカットしようとして道なき道を思い思いに歩き回った結果だろうか、既にどれが正規のルートかわからない。それに、ここに至るまで、登山道の印がわかりにくかったり分岐に看板があったりなかったり、今回もどこが分岐かは分かりにくいだろうという心づもりでいた。地図を確認する。分岐ポイントに名前は書かれていないし、きっと看板もないのだろう。写真下の手前の稜線へ向かった。テープや紐といった印は全く見当たらなかった。ただ、幾重にも踏み固められた道がその尾根へと向かっていた。

小ピークあたりまで来たところで、その切り立った様に緊張が走る。巻道というのだろうか、笹の急斜面を横切る道が続いていた。中々スリリングであるが何とか行けると踏んで歩き出す。が、振り返れば後ろで嫁が動けないでいる。足の運び方を教えて、大丈夫、何ということはないと落ち着かせる。実際に危ない道だった。幅も僅か片足分、笹の根が露出して滑りやすいし、踏み抜けてしまっているところもある。いざという時には笹の株を持って何とかなるのかどうか、必要以上に力んで僅かに滑り、一瞬、谷側の足に力が入らなくなって冷や汗が出る。何とか持ち直し後ろを振り返る。思っていたより嫁は良いペースで付いて来ていた。何とか頑張ってほしい。

一先ずその巻道を渡り終えた。沢山の踏み跡はさらに先へ迷いながら、何かあっても取付けるツツジの間を縫う様に続いている。ここさえ越えれば後はより木々が生い茂って安全な緩斜面へ抜けて南下するはず。嫁を安全なところ(写真下、稜線真ん中の窪んだあたり)に残し、先を見に行く。が、行き着いたのはまさに断崖であった。

岩が露出した崖。鎖もロープも何もない。南下するはずの稜線も全く見えない。ただ、幾重にも彷徨う踏み跡が右往左往しながら谷へ吸い込まれる様に続いている。これはまずいと思った。かつて矢筈山で道に迷いビバークした時の比ではないくらい滑落の危険を感じた。時間は14時近く。引き返すことにした。あの笹の巻道は二度と通りたくない。ツツジの間を縫って何とかお亀岩まで戻った。無事に戻ってこれた鞍部の何と平和な景色であることか。

水を汲んで遅い昼飯をとったら15時、下山は翌日へ持ち越しとなった。来たルートを引き返すしかない。既に行動を終えるべき時間帯であるが、三嶺までは戻っておくことにした。自分達のペースでは、ここからだと1日で下山できるとは思えない。夕日を背に稜線を歩く。暗いのに明るい。夕陽に照らされた笹の海原。何と幻想的で美しい。これをアーベントロートと言うのだろうか。

振り返れば、嫁の息の上がり方がおかしい。そして、再々水を飲む。食欲はないと言うが、シャリバテになってはまずい。羊羹を食べるよう少しキツく言った。とにかく自分ではどうにもならないほどバテてしまっているのだろう。無理もない。二日続きの寝不足の上、緊張につぐ緊張。足も痛むという。何とか気持ちだけでも回復してもらわなければ。この美しい景色は心細い中でこそ瑞々しく際立つものではないか。少し元気を取り戻した嫁も、この景色を忘れないであろうと言ってる。何よりである。

18時前、無事、三嶺に到着。風が強く冷え込む中、テント泊をもう一晩して寝不足を重ねるのは翌日に不安が残る。ヒュッテに避難させてもらうことにした。先客が思っていたより大勢、夕食の最中であった。親世代であろうか、三嶺から剣へ縦走するとのこと。20時には早々に就寝していた。

我々も米を炊き、ようやくあったかい飯にありつく。しかし、嫁の状態が思わしくない。食べ物が喉を通らないという。どうしたものか。普段は私と同じくらい食べることもあるのに、この山行では端から食べる量が少なすぎる。2泊までの食料と燃料には十分余裕あるが、3日目に寝込んで動けないとなってしまって4日目を迎えるにはあまりにも心許ない。どうするか、最悪の場合、嫁をヒュッテに残し明日は自分だけ下山して食料を補充して戻ってくるしかないか。外は風が吹き荒んでいる。前回の冷え切った稜線歩きを思い出した。三嶺はかつてないほど厳しい山であった。

夜中も度々ゴソゴソ動く嫁。寝つけないのだろう。寒いようなので使っていない自分の上着を渡す。少し寝ただろうか、嫁が寝袋から出ようとしている。気分転換に一度外に出るようだ。帰ってきて聞くと、だいぶんマシになったとのこと。やれやれ。少しホッとする。

夜が明けた。嫁はそこそこ回復したようだ。飯も食べられると言う。外はまだ風が吹いている。どんな天気になるのか。休み休みゆっくり歩いて下山するのに8時間はかかるだろうか。

不安だった山頂直下の鎖場は思いのほか順調に降りることができた。帰る道々、自分達が迷い込んだ稜線と地図を何度も照らし合わせる。が、どうしても納得がいかない。どれが天狗塚でどれが天狗峠か、分岐点はどこで、どの稜線を行くべきだったのか。何度見ても頭が混乱して読み解けなかったのだが、嫁の一言により、天狗塚がどれであるかをそもそも間違えていたことに気付かされる。となれば、もう一つ奥の稜線が下山ルートだったことになる。思い込みとは恐ろしい。手前に見えるピークが分岐だと思い込んだことで後の情報がうまく整理されなくなったのだろう。何故か、地図には目指すべきピークのさらに手前にもう一つ別のピークがあるなんて示していない、眼前に見えるピークの存在がないものとされるなど考えられないのだから。抑えるべき幾つかのポイントの一つでも欠けてしまうと全体像が崩れてしまう。思い返せば、あの巻道を行く局面においてでさえ、地図をどう読むか擦り合わせようとするも上手く噛み合わなかった。改めて私が持っていた地図と嫁が持っていた地図を見比べてみる。

余談であるが、いずれもかつて私が買い求めたもの。改めて何年版か見て笑ってしまった。2002年版と2004年版。いつか三嶺に登りたいと思ってから実現するまで20年経ったらしい。20代、30代はとても遊ぶ余裕などなかった。

さて、話を戻す。どう目を凝らしても見えなかった小ピークが嫁のものには明確に描かれていた。いやはや、これが道迷いの原因か。とはいえ、地図のせいにするのは余りに都合がよすぎるし、流石にそれはないだろう。帰宅後に改めてモニター上に拡大して見る。と、私の地図にも辛うじて描かれているではないか。お亀岩を表す点の中でピークを表す円がとじられている。いやはや。しかし、何ともわかりにくい。それに、やはりこの描かれ方では地形的にも実際と照らし合わせるのは難しい。だからあれだけ沢山の足跡が彷徨っていたのだろう。さて、もう一方の分岐点について。嫁のものには「地蔵ノ頭」と明記されているのに、私のものにはない。名前がついていない分岐ならば大した地形的特徴を持っていないのだろうと思っても仕方がないと思うのだが。地図というものが出版年の違いでこうも変わるとは思ってもみなかった。

しかし、いずれにせよ、絶対的な情報である天狗峠と天狗塚がどれなのか明確にあって全体像をイメージできていれば、位置関係や距離感からポイントを見誤ることはなかったであろう。登るつもりがなかったので、それらの情報を事前に確認することもなかった。それに、最新版の地図を用意していなかったのは大失敗であった。

 私が持っていた地図(2002年版 山と高原地図 四国剣山)

 嫁が持っていた地図(2004年版 山と高原地図 石鎚・四国剣山)

行きにとった写真であるが、真ん中にとんがった三角が天狗塚でその右手前が地蔵ノ頭、その右奥が天狗峠であった。地蔵ノ頭から斜め左方向へ続く稜線と並行する稜線が手前に見えるはずだが、そこが迷い込んだところ。分かりにくいが、途中、二股に分かれているように見えるその谷側が断崖となっていた。とにかく無事に帰ってこれてよかった。

いろんな条件が揃ってしまうと、道迷いはどうしても起こるのかもしれない。迷った時は来た道を引き返す。地図読みについてまた一つ勉強になった。百聞は一見に如かずである。色々あったが、兎にも角にも美しい景色を満喫し存分にリフレッシュできた。下山は想定していたより順調に5時間で済み、13時過ぎには光石登山口に着いた。何かと大変だった嫁も、これまでで一番楽しかったし三嶺は最高と言ってる。何よりである。

秋の山行

10月28日、かねてより憧れていた三嶺へ向かった。徳島と高知の間に連なる剣山系の一つで、思い入れを持ったファンが多いことで知られており、「みうね」が正式なようだが、高知では「さんれい」と親しみをもって呼ばれている。

一泊二日の行程。初めての今回は一日目、途中のさおりが原でテント泊して、二日目は様子を見つつ行けるところまで行って引き返す予定だ。昨年大変な目に遭った石鎚の裏参道のことがある。人によっては10時間ほどかけて日帰りするようだが、まあ、自分達には無理だろう。

高知県、旧物部村の最奥、久保の影という集落の先、西熊林道に登山口がある。さおりが原は、20年前の修行時代、研修先の農園へ援農に来られていたご夫婦に連れて来てもらった思い出の場所だ。当初は住み込みで働かせてもらっており、息抜きにとの心遣いであった。5月、静かな沢が流れ入る園地にバイケイソウの群落、立派な栃木。帰りには笹温泉に浸かって夢見心地であった。

我が家から登山口まで約100キロ、3時間弱。前日まで何の用意もできなかったので、朝起きてから、弁当を作り、荷造りを済ませて家を出たのが9時半。登り始めたのが12時半。さおりが原までは印に混乱して迷いやすいらしい。なるほど、どこでも通れそうな開けたところは足跡が道を作っておらずトレースすることができない。枝や幹に巻かれたテープもラインを描かず、こっちからもあっちからも行けるというように散在しており、分岐のポイントがわかりにくい。地図とコンパスを頼りに地形を確認しながら北の少し東寄りの方角を登ってゆく。

昼前に道中でパンを食べていたので、遅めの弁当タイムをとった。山仕様の卵焼きは、だし巻きではなく砂糖と薄口醤油で。太白ごま油を贅沢に使い、2人前を卵6個で作る。今回は海苔弁に。忍ばせた昆布と卵焼きとの相性が抜群であった。他は、芹と鰹節をソーセージを焼いた残り油でさっと火を通して醤油を和えたもの。

尾根に出た。どうやらさおりが原への分岐を過ぎてしまったようだ。尾根伝いに北東へ進路を変える。そのまま進むことにした。眼前、北に西熊山らしき頂と大タオらしき見事な笹原の稜線が見えた。あれがカンカケ谷でこれがフスベヨリ谷だろう。そして私たちの立つ尾根。いずれ本来予定していた道と合流するはずだ。

今思えば、散在しているように見えた印はつまり、九十九折りを細かすぎるくらいに案内していたのかもしれない。それで肝心の分岐も同様のそれと思い込んでしまったらしい。

15時が過ぎ、16時が過ぎ、まだ合流すべき尾根が見えない。気温が下がってきた。そろそろ、さおりが原は諦めるべきか、どこでテントを張るか探しながら進む。16時半、いよいよ今日はここまで。強さを増してきた風を避けられる場所を探す。窪地は平らでも湿気ているし、鹿のフンもそこここにある。そして枯れた立ち木の下を避けるとなると、なかなか見当たらない。風上でなければいいか。気温はぐんぐん下がってきた。山の様相は急激に変わるから恐ろしい。

ビバークではないが、当初の予定を外れて一泊することに。強い風が夜通し続いたが、幸いテントを張ったところは穏やかだった。ここは熊が棲む山域らしい。鹿の鳴き声も時折聞こえてくる。猪も間違いなくいるだろう。テント周りに細引きで境界をこしらえ、そこに熊鈴をぶら下げて呼子にする。効果があるかないかわからないけど、、、弱いなぁ、自分。かつての山に入る人ならば当然、我が身を守る術を持っていたであろうに。身についてないことのなんと深刻で痛恨なことか。40歳も過ぎて慌てて取り戻そうとしている。

熊の話を持ち出すと嫁が思った以上に嫌がった。スマン、スマン。スマンでは、すまん。

一晩中強風が尾根向こうで吹き荒び、嫁はほとんど寝られなかった様子。私は気づけは2時間とか1時間とか経っていたのが幸いだった。3シーズン用の寝袋だが防水透湿性のあるカバーを新調したことで暖かく寝ることができた。嫁は冬仕様のものだがそれだけでは寒かったようだ。

夜が明けてコーヒーを淹れ、お手製のパウンドケーキでひと心地。

「コーヒー入ったよー」嫁を呼ぼうとしたところ、転かして半減させてしまった。貴重な水、貴重な燃料、、、疲れてるな、自分。呆れて文句を言うでもなく、美味しいと慰めてくれた嫁に感謝。

テントを撤収し、パッキングしていざ出発。8時。三嶺までは無理でもカヤハゲの分岐を確認するところまでは行きたい。じきに陽が出るだろうと、防寒着をザックに仕舞い込み薄手の行動着になったものの、風が一向にやまない。テントを張った南側とは違い、進む尾根の北側は風がもろに当たる。これはキツいと思う間にも体温がどんどん奪われてゆく。嫁がもう引き返そうと言う。尚も先を進もうとする私に、この先風が止む保証はないのだからと更に訴える。ひとまずザックを降ろし、とにかく仕舞い込んだ防寒着を着直すことに。ニット帽を被りさらにフードで覆う。これでなんとかなりそうだが、その間、少し余裕を取り戻すことができた。テントの撤収作業で待たせていた間、私と嫁の保持している温みには幾分の差がすでに生まれていたことに思い至る。気づけば私自身だいぶん冷静な思考をを失うほど冷えは緊迫していた。吹き付ける風の強さはとてつもなかった。以前友人が、どこでそう思ったのか知らないけれど、手綱を握っているのは嫁、と言っていたのを思い出して苦笑いする。言い得て妙である。

初の三嶺は遠く叶わなかったが、かつてないほど広く美しい豊かな森を十分満喫することができた。

また来ると、嫁の背中が言ってる。

来た道を戻り、さおりが原への分岐を確認。20年ぶりの園は鹿避けの防護ネットが至る所に施され物々しい様相となっていた。倒木、立ち枯れ。よほどの嵐だったのか、砂礫が剥き出しとなっているところがそこ此処に。美しくも荒々しいかけがえのない山。コーヒーを淹れ直した。

また転かすなよー

再び嶺北の山へ

山登りについては、嫁の方が俄然モチベーションが高い。私は運転が好きではなく、叶うものなら自転車で登山口まで来たいくらい。なので、小一時間で行ける近場にお気にいりの山が増えたのは嬉しい。石鎚山にもまた行きたいし、三嶺にも行きたいけれど3時間近くかかってしまうのが億劫だ。

芽吹き始めた山の上。この日は風が強くて体温調節に何度も着たり脱いだりを繰り返した。

チョコレートにクランベリーとレーズン、くるみとひまわりの種がたっぷり入ったパウンドケーキはハイカロリーな山仕様。弁当は、かつて少年野球をしていた頃のチーム飯。お母さん達が毎度の献立に悩まないように考えられた、卵焼きとソーセージがあればオッケーというのを踏襲している。今回はそれにプラス、三つ葉とおジャコの炒め物。

 

 

嶺北の山々

本格的な畑シーズンを迎える前に、山へ行くことにした。代掻き前の綺麗な汗見川を上へ上へと県境の峠まで。1時間ほどで登山口に着く。

花も新緑もまだだったが、静かで久しぶりに心が休まった。昼過ぎから登り始めたので、時間的に無理をせず、大森山で引き返すことに。前日まで丸太を運んだり割ったりしていたこともあって、心地よい疲労感に充分満足できた。山々を見渡す開放感、その中で弁当を食べる贅沢なひと時。長閑なところですねと言われるような中山間地で暮らしているのに、更に奥へまた登る。ただ歩くことに専念できるということ、ただ景色を楽しめることって、仕事や責任に追われる日常では中々叶わないものだ。

自分たちの暮らしがこの奥深き山々の中にある。頂から見渡せば、虫にたかられ汗にまみれる毎日をまた頑張ろうと思える。残した木々がいよいよ立派に映え、木漏れ日が射すようになるのは嬉しい。かけがえなき花鳥風月。

同じ集落の還暦を過ぎた農家さんが息子に跡を譲り、花のなる木を植えている。幸せのかたち。子を授からなかった私たちは、この地において一代で終いをつけることになる。けれど、それもまた人生ということで、私たちは私たちなりに楽しみを見出していきたいと思っている。

装備はいつもの一泊分。弁当作って非常食は手軽なクスクス。

道中、山の至る所に植林の大規模な皆伐が進んでいた。大胆過ぎやしないだろうかと心配になる。

石鎚参り

改めて今後の予定を考えると、この秋、私たちの山行チャンスはとても限られていることが判明。天気予報を見れば週末から当分天気は下り坂ということで、いよいよ悠長に構えてはいられない。石鎚へ。

裏参道と呼ばれている面河ルートは登山口から山頂まで1100メートルほど標高を一気に上がるので以前登った土小屋ルートよりも難易度は高いらしい。しかしその分、人が少なく、渓谷美や植生の豊かさで人気のようだ。怖がりな私たちとしても少しずつ山行を重ねるたび欲が出てきて、もっとボリュームがあって楽しめるルートに挑戦したい気運が高まっていた。切り立った断崖を何の確保技術もなく登りたいとは思わないけれど、なぜ自分達がこれほどまで山登りに引き込まれていくのか、日帰りからテント泊、初級とされるルートから中級、少しずつその先へハマる理由がわかる気がするのだ。

里山は、いかに暮らしに役立てるか、いかにお金に換えるか。だから、手付かずのというのはただ遊ばせている状態にしか映らない。そこもここも誰かの山であって、普段は自分が借りているごく限られた範囲にしか入らない。そこは手入れすべきところであって散歩するところではないのだ。支障木を伐り木漏れ日が差し込むようになったことを喜びはするが、頭は常に課題に占められている。

立派な木々に囲まれるとホッとする。しばし浮世を離れ、お山参りに来たということなのだろう。

とても手の行き届いた参道が続く。石段が積まれ所々木道が拵えてあり、朽ちた箇所には補修が施され補強され、危険なところにはロープが渡され安全を確保されている。人の善意を感じるからホッとするのかも。

今回の装備は下記の通り。

 

私(35ℓのザックに10ℓ外付けで約15キロ);二人用テント、グラウンドシート、銀マット、スリーピングマット、寝袋、衣類、水2.5ℓ、弁当1食分、生米6合、棒ラーメン4食分、缶詰1缶、他補給食、ビール500ml、調理器具類、トレッキングポール、その他

嫁(30ℓザックの限界?キロ);ツェルト、スリーピングマット、寝袋、衣類、水1.5リットル、弁当1食分、パスタ2食分、肉味噌、棒ラーメン2食分、他補給食、ビール350ml、調理器具類、トレッキングポール、その他

食料は何かあった時のために6食分。(一日目;昼と晩、二日目;朝と昼と晩、三日目;朝)他補給食。

重いので一歩一歩ゆっくり登る。道標に記されている所要時間はあまり参考にならない。

頂きが見えてきた。今回は手前で一泊し、翌日に目指す。今朝は3時に起きて弁当を作り、畑に水をやり準備万端7時まえに家を出た。池川から松山街道を経て面河に入る予定であったが、途中全面通行止めにあって引き返し、国道33号仁淀川町を経由して1時間ほどのロス。結局3時間かかった。今日は早めに休みたい。

16時前に本日の目的地、愛大石鎚小屋に到着。綺麗なテン場が拵えてあってとても助かった。草も刈られていた。

まだまだ慣れないテント張り。張りを調節する自在鉤のような部品をどう使ったらいいのか、あーでもなこーでもないと言いながら正解を探す。今更人に聞けないし、自分なりに工夫するのがアウトドアの醍醐味なのだから。胡瓜の支柱張りやトラックに荷を積む時に使っている紐やロープの締め方を簡略化するための部品なのだろうかと思い至ったところで解にたどり着く。これが楽しい。整えられたテン場のおかげでしっかり張ることができた。

もう一つあるテン場には星を撮りにきたというベテラン登山者の男性。必要最小限の荷物、手際良い設営。食事はそこそこにカメラ。野営という感じが楽しそう。気づけば石鎚の山が赤く染まる。

我が家は昨晩仕込んでおいたスモークチキン(鳥もも肉の塊を薪火で燻しながら焼いたもの)とショートパスタに嫁の肉味噌(茄子たっぷりを煮詰めたカレー風味)。そしてビール。一本でもあると嬉しい。

星空を楽しむ。メガネだとそもそもあまり見えないから、せっかくだけどそれなりにしか見えない。きっと満天。月は出ていないのに明るい。星で明るいのか西条や新居浜の灯りで明るいのか。

四時ごろに目が覚めて夜明けを待つ。コーヒーを淹れる。美味しい。これが楽しい。

明けるにつれ気温が下がるのを感じる。これもまた楽しい。

朝は昼の分も用意するため米を4合炊く。しかし、焦付きを恐れるあまり芯が残ってしまった。これを昼も食べないかんのか。

あまりにも美味しくないので水を加えてお粥にする。そうなると食べた後の飯盒も食器もえらいことに。ここに水場はないので、ザックに外付け。これも勉強と言い聞かせる。

撤収作業がもたつき出発は8時。しかしコンパクトなパッキングをベテランさんに褒められた。

15分ほど歩いて水場に到着。時間はかかってもしっかり洗う。アクリルタワシを持ってきて正解。汚れたままが一つでもあるとあれもこれも全てが汚れてしまう。水場はありがたい。使い果たしていた飲水も補給。と、そこで嫁が気付く。ほぼ垂直な岩肌を流れる少なめの水。わたしが洗っているところだけ具合よく岩肌から離れて落ちているのだが、それが岩の形によるものではなくて、引っかかった落ち葉によって、偶然蛇口から流れる水のように落ちていたのだ。なるほど、道具とはかくなる物。岩肌を舐める水もそうやって何か適当なものを据えれば洗いやすく汲みやすくなるのか。これぞ山登りの醍醐味。

ああ、晴天。我、秋晴れを満喫す。

人で混み合っていた山頂はお参りだけを済ませて早々に退散。

11時前に出発。ここからひたすら下る。

何かあった時のためとはいえ、水2リットルを余計に担ぎ続けたのがいけない、足にきてしまった。水場での昼ごはんを終えてさて出発、担ごうとしたときにバランスを崩し谷に向かってつまづいた。その拍子にあろうことか、近くにいた嫁の足を踏み蹴ってしまったのだ。うずくまる嫁。

足首を捻挫させてしまったのか。なんということだ。持ち上げようとした15キロの荷物、重い登山靴。自分はバランスを取るために必死で、踏ん張りがきかないとはこういうことか、ザックを支えに数歩、谷へ頭から落ちずに済んだものの嫁を巻き込んでしまった。登山口までまだ半分以上、4時間以上ある。

押さえている箇所に表立った傷は見当たらない、嫁は少しづつ落ち着きを取り戻し痛みはマシになってきたという。しかし、すごい重みだったようだ。腫れはない。歩けそうという。うむむ。すまない。

しばらく歩いて、テント泊した場所へ到着。どうやら大丈夫のようだ。よかった。しかし、二人とも確実に疲れている。

焦らずゆっくり、いざというときはもう一泊すればいいとはいうものの、ふとした瞬間足が思うように上がっていなかったり、踵が下手に着地したり、たびたびバランスを崩しそうになる。最後の水場に来た。15時。あと2時間ほどの地点。今一度集中できるように、コーヒーを淹れて気持ちを切り替えよう。コーヒーが、カフェインが、体に染み渡る。最高に美味しい。塩羊羹がうまい。

ここから段差のある石段の下りが始まる。

そして、また、転けそうになってしまった。2本のストックでなんとか支えられたもののひやっとした。もういかん。水を捨てよう。のこりはあと少しだし迷うような道ではないからここまできてビバークはないだろう。肩が圧迫されてか、寝不足からか少々頭が痛い。心なしフラフラする。2リットルを捨てる。担ぐと驚くほどに軽い。血流が通った感じがする。馬鹿らしいくらい軽い。どら焼きを食べた。そして、トレッキングポールをしまうことにした。まだまだ使いこなせていないというのもあってつい力んでしまうし、石段とは相性が悪いように感じたのだ。段差のきついところは手をついて体全体を使い局所への負荷をできるだけ分散させるように、そして自分のペースでリズムを作り少し速めることにした。大分楽だ。

嫁が作ってくれたクルミとひまわりの種を炒ってドライフルーツと合わせた特製補給食を食べた。塩が効いていて美味しい。なんとかいけそうだ。すまんが嫁のペースに合わせる余裕がもうない。とにかく自分のペースを取り戻して転けないことが大事。先を行っては追いつくまで待つのを繰り返す。嫁も余裕がない。黙々と歩く。

17時半無事、揃って鳥居をくぐり下山。ありがとうございました。

あとは駐車場まで川沿いを歩く。

18時過ぎ、駐車場着。ヘっちんを着ければいいのにもはやそれを取り出す余裕もなかった嫁。そういう時こそ危ないと思うのだが、、、ちゃんと見えているか私もへっちんを消して歩いた。まあ、なんとか見えた。

18時半出発。ここから家まで3時間か。遠い。普段のスピードに反応がついていかない状態なので、ゆっくり走った。

21時半、帰宅。ヘトヘトだ。

また来たいと思う。しかしスケジュールを見直す必要があるし、米をはじめとして水と燃料をたくさん消費する食材については考え直す必要がある。(朝米を炊くのは3合で十分)

我ながら危なっかしい山行であった。改めて行程を振り返ってみる。行動時間と休憩時間を合わせた時間と、地図に記載されている参考タイム(休憩時間は含まれない)を比較すると、

1日目:家から登山口まで3時間30分、登山口からテント場まで5時間15分。行動時間3時間25分(参考タイム3時間40分)

2日目:テント場から山頂まで2時間35分。行動時間1時間55分(参考タイム:1時間20分)、山頂から登山口まで6時間45分。行動時間5時間(参考タイム:3時間10分)、登山口から家まで3時間半

2日目については全ての行程を合わせると12時間45分。無茶なスケジューリングだ。食料は米2合、棒ラーメン6食分、缶詰1缶、他補給食ちょっとが残った。水場は2箇所あり、行動時は500mlの水筒分で十分足りた。

では次回、二泊三日のスケジュールにするのか。前日入りして登山口近くのキャンプ場で一泊。1日目に山頂まで行って折り返し、愛大小屋泊。二日目にそこから出発すれば15時には下山できるし、帰りは温泉に浸かれる。

工石山へ

春から続く緊張でいよいよ息切れしてきたころ、金木犀の香り、朝のひんやりと澄んだ空気が山行を誘う。気づけば4月の終わりから一度も行ってない。登山口まで家から10分なのが嬉しい。

晴れ渡る空

リンドウの花が迎えてくれる。

白鷲岩とはよく名付けたもので、鳥の背に乗っているような気分。眼下一面に景色が広がる。高くて怖い。私たちの間ではネバーエンディングストーリーのファルコン。

正面に見えるのが石鎚山かな。今日はその石鎚山へ登るための脚慣らしで、ザックの重量は15キロ弱。いい運動になった。嫁は初トレッキングポールに手応えを感じた様子。弁当も美味しかったし、木漏れ日の中、とても清々しい山行であった。