月別アーカイブ: 2021年10月

本日出荷の生鮮

旬の詰め合わせになりました。今年も新生姜のご要望ありがとうございます。秋茄子はいよいよ終わりです。冬に向けて大根の間引きが始まりました。

 

畑のようす〜10月下旬〜

例年は彼岸の開けるまでに済ませていたニンニクの植え付けが遅れて10月上旬になりました。これから玉ねぎの植え付け、冬野菜の間引きや草取りなどの手入れです。一気に寒くなってきて、サニーレタスが色づきました。

本日出荷の生鮮

このところ一気に冷え込みました。じっくり育ち充実した茄子やピーマン、万願寺とうがらしはずっしり重みが増してます。ピーマンは一度ぜひ生で。

火事にあって思うこと

10月10日未明、隣の空き家が火事になった。

大雨か雹か、何かがトタンを打つ激しい音に目を覚ました。次の瞬間、けたたましい足音とともに嫁が火事だと叫んだ。悲痛な声とはこのことか。胸にビリビリ裂けるような痛みが走る。障子越しからでも異変がわかった。裸足のまま庭に出るとあたりは真っ赤になっていた。激しい音を立てて炎が上がっていたのだ。何故これほどになるまで気付かなかったのか。誰も使っていないはずの隣家の納屋が火の中に骨組みだけを見せていた。もはや自分でどうこうできるものではない。何故そこが燃えているのか、思考が働かない。我が家とはほんの小道を挟んだすぐ隣だ。消防の番号を押そうにも緊張で目が霞む。ワンコールで繋がった。家々へ知らせに回った。皆寝静まっていた。喉が枯れて声が思うように出ない。指笛を鳴らし、何度も叫んだ。戻ると庭に火の粉が降っていた。粉ではない。熾の塊だ。冬枯れした芝生の方々で火が上がる。足で踏んで消して回った。とにかく少しでも火の勢いを弱めないと。火元へバケツで消しに行った。水場とを2、3回行ったり来たりしただけで、息が切れて喉がカラカラになった。腰が抜けそうだ。隣接する工房のプロパンガスのことを思い出してコックを閉めに行った。タンクが驚くほど熱くなっている。壁板も熱い。もう近づいたらいかんと声がした。

消防が来た。あと少し遅かったら工房も我が家も全て燃えていた。壁が燃え始めていること気づいた地元消防団の知人がこちら側に放水するよう指示してくれたのだ。じわじわ煙が上がっている板壁の一部から一瞬火が吹いたそうだ。それは、全面が燃え上がる前兆だった。

裏山の植林を伐り、まめに草を刈っておいてよかった。でなければ山火事にまでなっていただろう。隣家は納屋も母屋も全焼した。

数日経って、疲れがどっと出てきた。寝れないのだ。

新聞の報道に呆れた。火事の要因と考えられるモミガラ燻炭の不始末。離れを間借りしていた当人は過失を認め、事情聴取を受け、現場検証にも立ち合っていた。警察にも消防にも、そして周りにも誰かは伝わっていることなのに、新聞は何を勘違いしたのか、家を焼かれた貸主が燻炭作りをしていたと書いたのだ。しかし、翌日の朝刊に詫びも訂正という形も取られてはいなかった。誤解を解く内容ではあったが、前日の報道を詳しくしたという体であった。

社会とはそうしたものだと思うとやりきれない。今回の火事についても、責任を追及したいわけではないが、過失なところとそうでないところがある。籾殻燻炭による火事というのはよくあることとして知られており、消えたと思っても中で燻っているもの。なので、普通、納屋や小屋などには置かない。そもそも、当人は貸主に断りもなく納屋を使っていた。問いただしてみれば、危ないものとしての認識はあったという。しかし、ならば自分の目の届きやすい近くに置くべきところ、どういった了見で母屋を隔てた奥にある納屋に置いたのか。逆に我が家の目と鼻の先ではないか。実際、はじめに火事に気付いたのは私たちで、通報が少しでも遅れていたら間違いなく我が家は燃えていた。話してみても、その意味するところに考えが至らないようなのだ。幾度となく悪く捉えないようにしようとするものの、これまでもそうであったが、彼のその後の行いを見るにつけ、抱いてきた不信感は得体の知れない不安へと変わってゆく。土下座までして謝罪はするものの、こちらと向き合うことはしない。

あの償いの言葉は何だったのか。熱中症になりそうなほどの炎天下で焼け跡の片づけが連日行われ、兎にも角にも片付いた。ならば、言葉の通り、粛々と荷物をまとめるものと思っていた。が、一向にその様子はない。

償いきれないということ。それでも償うべきを償うためにこれまでの人生を諦める。そんなことなかなかできるものではない。といって、開き直って悪びれず、なかったことにする態度が更に相手を苦しめ不安を強いる、ということさえも知らぬ存ぜぬで通すというのか。

とにかく、我が家は無事だった。工房の壁が焼け、窓ガラスが割れ、他にもそれなりに被害を被ったが、修繕ですみそうだ。悪く考え出せばキリがないし、悪様に言えばそれは自分に返ってくる。自問自答を続けるうち、戦うべきは己のみというところに落ち着く。ところが、物事はそう簡単には終わらなかった。二次被害とはこういうことなのかと思わせる出来事がさらに続いた。火事そのものよりも質の悪い、傷を癒えなくさせるものだった。

自らの過ちを誤魔化すため虚構に虚構を重ねる。相手に潜んでいるかもしれない狂気を怖れるあまり言葉を選ぶ。いろんな人の濃淡入り混じった恐れが堆積して物事の真相をぼかしてゆく。我が身可愛さに、なんなら、その中に美談を見つけてでも一件落着させたい周囲の同調圧力。

何とか気持ちを切り替えようとするものの日常を取り戻せずにいたある日、新聞に後日談のような形で記者による投稿が掲載された。困惑する被害者家族から、その内容についてどう思うか問われた。被害を受けた当事者への取材は一切ないまま、火事を起こした彼の人物像を、都合のいい思い込みのまま一方的に擁護するものであった。

実情を知らない、自らの生活に関わりのない第三者ほど、寛容であることを押し付けてくる。失敗は誰にでもあると加害者に同情するあまり、被害者が置き去りにされ、逆に被害者が受け入れ難きを訴えようものなら、立場が逆転しかねない圧力。身の内を吐露し、誰かに同意を求める行為は、相手を吊し上げる加害行為になってしまうのだ。心情としては当然のはずが、黙って口をつぐむしかない。被害者をそういう状況へ更に追いやるものだった。まだ渦中にいるのに、もう済んだことにされる。許す許さないどころではない、負った傷は依然生々しく、夢にうなされ、ちょっとした物音に目が覚め、未だ眠れない夜もある。正直、もう忘れさせてほしいのに、「地域は温かくこれからも隣人であり続ける」と締め括られていた。

実際のところ、火事が過失である以上、追及されるべきでないのだろう。誰だって何かの間違いで起こしてしまうかもしれない。だから、事件性がある場合や、被害者が刑事告訴しない限り、その原因や責任の所在が明らかにされるものではないらしい。だから、突き詰めて言えば今回の場合、結局のところ火事の原因は不問ということになる。

そういった事情を知らなかった私は後日訪れた消防署員に原因は特定されたのか訊いた。邪推と受け取られても仕方がないが、当人のあまりの開き直り様、そして、実家を焼かれた人の心情や、これまで積み重ねてきたものを全て失い死ぬかもしれない思いをしたこちらの心情を顧みない傍若無人振りを目の当たりにするうち、ひょっとして、彼は、自分が原因ではないかもしれないという安易な処に落ち着こうとしているのではないか、という不安が頭をよぎり空恐ろしくなった。だから、確定したのかどうか気になったのだ。全ては誤魔化され、隣人であり続けるのが無理ならば、こちらが出て行くしかないというのか。被害者であることを振りかざすつもりはないが、しかしである。

消防署員の顔色が変わった。何故それほど気になるのか、当人との関係に何ぞ問題でもあったのか、問い返された。なるほど、火事の要因が籾殻燻炭であるには違いないが、発火原因は分からない。まあ、ないとは思うが、君がその発火原因と考えられないこともない、悪いことは言わないからこれ以上は立ち入らないようにと釘を刺されたのだ。

助言として受け取るべきなのか。しかし、まさか自分が疑われる可能性があるとは思ってもみなかった。第一通報者だから?彼を良く思わないというだけで?冤罪というものの恐ろしさ、堪え難さに初めて想い至った。かつてないほど精神の均衡を保つことに危機を感じた出来事であった。

人が違えば見え方は違うのだろうか。渦中にいると自分を見失いそうになる。しかし、ついには面と向かって拒絶する必要があった。あろうことか、野焼きを始めたのだ。一日で終わらず、二日、三日と繰り返された。そして、空っ風吹くなか黒煙を上げ、異臭を上げ始めた。まだ周囲は気づいていないというのか。異常だと感じるのは私だけの偏った主観でしかないというのか。ならばそれでもいい。主観として、止めるよう断固として訴えるしかない。折しも、発泡スチロールの箱を燃え盛るドラム缶の中へ次から次へと投げ入れるところ、通気孔からは火が吹き出し、時すでに、近くに積まれた丸太に引火していた。にもかかわらず、当人は気付いていない。建物が隣接し、またもや手遅れになる所だった。これを機にようやく事は動き出した。こんな、つまらないことで、人生を台無しにされたくないという必死な思いだった。

考えないようにする。気にしないようにする。見ないようにする。いつか終わりが来ると信じて耐え忍ぶ。本当にそんなことが出来ただろうか。火事から半年が経とうとしていた。

 

本日出荷の生鮮

新生姜、はじまりました。季節は移ろい、ナスは終わりに向かいにんじんが太り始めました。今年から秋作のレタスも。

新生姜については、どうやって食べたらいい?とよく聞かれます。今時分のものはとても若いので繊維が柔らか、そして辛味もキツくありません。とても爽やかです。なので、この時にしか楽しめない食べ方は、先端の一番若いところを一ミリほどのスライス(繊維と並行に)にして、美味しい味噌をつけて、日本酒を飲む。です。あれば青ゆずを少し搾って、焼酎と合わせるのもいいですよね。

通常のひね生姜よりもたっぷり食べられるのが嬉しい。なのでいつもはおろして薬味にしているところを千切りにして旬を楽しむのもいいですし、我が家の定番はきんぴらです。太白ごま油と本味醂、薄口醤油でシンプルに。それと、炊きたての新米をかき込む。体もほかほかになります。穂紫蘇のピクルスを添えるのもおすすめです。

より手軽なものだと、缶詰の鯖の水煮に新生姜の千切りとネギの小口切り、お好みで醤油、マヨネーズをかけてご飯のおかずにするのもおすすめです。

 

terzo tempoさんへ納品

10月12日、高知市内のterzo tempo さんへ納品してきました。

良き出会い、良き再会、良きひとときがあり、きなこナッツ、それに、いちじくのかき氷がとても美味しかったです。

本日出荷の生鮮

栄養満点の人参の間引き菜、なんといってもかき揚げがおすすめです。サニーレタスの間引き菜も少し。ゴーヤは季節の変わり目のまだまだ暑い時に嬉しい苦味です。

石鎚参り

改めて今後の予定を考えると、この秋、私たちの山行チャンスはとても限られていることが判明。天気予報を見れば週末から当分天気は下り坂ということで、いよいよ悠長に構えてはいられない。石鎚へ。

裏参道と呼ばれている面河ルートは登山口から山頂まで1100メートルほど標高を一気に上がるので以前登った土小屋ルートよりも難易度は高いらしい。しかしその分、人が少なく、渓谷美や植生の豊かさで人気のようだ。怖がりな私たちとしても少しずつ山行を重ねるたび欲が出てきて、もっとボリュームがあって楽しめるルートに挑戦したい気運が高まっていた。切り立った断崖を何の確保技術もなく登りたいとは思わないけれど、なぜ自分達がこれほどまで山登りに引き込まれていくのか、日帰りからテント泊、初級とされるルートから中級、少しずつその先へハマる理由がわかる気がするのだ。

里山は、いかに暮らしに役立てるか、いかにお金に換えるか。だから、手付かずのというのはただ遊ばせている状態にしか映らない。そこもここも誰かの山であって、普段は自分が借りているごく限られた範囲にしか入らない。そこは手入れすべきところであって散歩するところではないのだ。支障木を伐り木漏れ日が差し込むようになったことを喜びはするが、頭は常に課題に占められている。

立派な木々に囲まれるとホッとする。しばし浮世を離れ、お山参りに来たということなのだろう。

とても手の行き届いた参道が続く。石段が積まれ所々木道が拵えてあり、朽ちた箇所には補修が施され補強され、危険なところにはロープが渡され安全を確保されている。人の善意を感じるからホッとするのかも。

今回の装備は下記の通り。

 

私(35ℓのザックに10ℓ外付けで約15キロ);二人用テント、グラウンドシート、銀マット、スリーピングマット、寝袋、衣類、水2.5ℓ、弁当1食分、生米6合、棒ラーメン4食分、缶詰1缶、他補給食、ビール500ml、調理器具類、トレッキングポール、その他

嫁(30ℓザックの限界?キロ);ツェルト、スリーピングマット、寝袋、衣類、水1.5リットル、弁当1食分、パスタ2食分、肉味噌、棒ラーメン2食分、他補給食、ビール350ml、調理器具類、トレッキングポール、その他

食料は何かあった時のために6食分。(一日目;昼と晩、二日目;朝と昼と晩、三日目;朝)他補給食。

重いので一歩一歩ゆっくり登る。道標に記されている所要時間はあまり参考にならない。

頂きが見えてきた。今回は手前で一泊し、翌日に目指す。今朝は3時に起きて弁当を作り、畑に水をやり準備万端7時まえに家を出た。池川から松山街道を経て面河に入る予定であったが、途中全面通行止めにあって引き返し、国道33号仁淀川町を経由して1時間ほどのロス。結局3時間かかった。今日は早めに休みたい。

16時前に本日の目的地、愛大石鎚小屋に到着。綺麗なテン場が拵えてあってとても助かった。草も刈られていた。

まだまだ慣れないテント張り。張りを調節する自在鉤のような部品をどう使ったらいいのか、あーでもなこーでもないと言いながら正解を探す。今更人に聞けないし、自分なりに工夫するのがアウトドアの醍醐味なのだから。胡瓜の支柱張りやトラックに荷を積む時に使っている紐やロープの締め方を簡略化するための部品なのだろうかと思い至ったところで解にたどり着く。これが楽しい。整えられたテン場のおかげでしっかり張ることができた。

もう一つあるテン場には星を撮りにきたというベテラン登山者の男性。必要最小限の荷物、手際良い設営。食事はそこそこにカメラ。野営という感じが楽しそう。気づけば石鎚の山が赤く染まる。

我が家は昨晩仕込んでおいたスモークチキン(鳥もも肉の塊を薪火で燻しながら焼いたもの)とショートパスタに嫁の肉味噌(茄子たっぷりを煮詰めたカレー風味)。そしてビール。一本でもあると嬉しい。

星空を楽しむ。メガネだとそもそもあまり見えないから、せっかくだけどそれなりにしか見えない。きっと満天。月は出ていないのに明るい。星で明るいのか西条や新居浜の灯りで明るいのか。

四時ごろに目が覚めて夜明けを待つ。コーヒーを淹れる。美味しい。これが楽しい。

明けるにつれ気温が下がるのを感じる。これもまた楽しい。

朝は昼の分も用意するため米を4合炊く。しかし、焦付きを恐れるあまり芯が残ってしまった。これを昼も食べないかんのか。

あまりにも美味しくないので水を加えてお粥にする。そうなると食べた後の飯盒も食器もえらいことに。ここに水場はないので、ザックに外付け。これも勉強と言い聞かせる。

撤収作業がもたつき出発は8時。しかしコンパクトなパッキングをベテランさんに褒められた。

15分ほど歩いて水場に到着。時間はかかってもしっかり洗う。アクリルタワシを持ってきて正解。汚れたままが一つでもあるとあれもこれも全てが汚れてしまう。水場はありがたい。使い果たしていた飲水も補給。と、そこで嫁が気付く。ほぼ垂直な岩肌を流れる少なめの水。わたしが洗っているところだけ具合よく岩肌から離れて落ちているのだが、それが岩の形によるものではなくて、引っかかった落ち葉によって、偶然蛇口から流れる水のように落ちていたのだ。なるほど、道具とはかくなる物。岩肌を舐める水もそうやって何か適当なものを据えれば洗いやすく汲みやすくなるのか。これぞ山登りの醍醐味。

ああ、晴天。我、秋晴れを満喫す。

人で混み合っていた山頂はお参りだけを済ませて早々に退散。

11時前に出発。ここからひたすら下る。

何かあった時のためとはいえ、水2リットルを余計に担ぎ続けたのがいけない、足にきてしまった。水場での昼ごはんを終えてさて出発、担ごうとしたときにバランスを崩し谷に向かってつまづいた。その拍子にあろうことか、近くにいた嫁の足を踏み蹴ってしまったのだ。うずくまる嫁。

足首を捻挫させてしまったのか。なんということだ。持ち上げようとした15キロの荷物、重い登山靴。自分はバランスを取るために必死で、踏ん張りがきかないとはこういうことか、ザックを支えに数歩、谷へ頭から落ちずに済んだものの嫁を巻き込んでしまった。登山口までまだ半分以上、4時間以上ある。

押さえている箇所に表立った傷は見当たらない、嫁は少しづつ落ち着きを取り戻し痛みはマシになってきたという。しかし、すごい重みだったようだ。腫れはない。歩けそうという。うむむ。すまない。

しばらく歩いて、テント泊した場所へ到着。どうやら大丈夫のようだ。よかった。しかし、二人とも確実に疲れている。

焦らずゆっくり、いざというときはもう一泊すればいいとはいうものの、ふとした瞬間足が思うように上がっていなかったり、踵が下手に着地したり、たびたびバランスを崩しそうになる。最後の水場に来た。15時。あと2時間ほどの地点。今一度集中できるように、コーヒーを淹れて気持ちを切り替えよう。コーヒーが、カフェインが、体に染み渡る。最高に美味しい。塩羊羹がうまい。

ここから段差のある石段の下りが始まる。

そして、また、転けそうになってしまった。2本のストックでなんとか支えられたもののひやっとした。もういかん。水を捨てよう。のこりはあと少しだし迷うような道ではないからここまできてビバークはないだろう。肩が圧迫されてか、寝不足からか少々頭が痛い。心なしフラフラする。2リットルを捨てる。担ぐと驚くほどに軽い。血流が通った感じがする。馬鹿らしいくらい軽い。どら焼きを食べた。そして、トレッキングポールをしまうことにした。まだまだ使いこなせていないというのもあってつい力んでしまうし、石段とは相性が悪いように感じたのだ。段差のきついところは手をついて体全体を使い局所への負荷をできるだけ分散させるように、そして自分のペースでリズムを作り少し速めることにした。大分楽だ。

嫁が作ってくれたクルミとひまわりの種を炒ってドライフルーツと合わせた特製補給食を食べた。塩が効いていて美味しい。なんとかいけそうだ。すまんが嫁のペースに合わせる余裕がもうない。とにかく自分のペースを取り戻して転けないことが大事。先を行っては追いつくまで待つのを繰り返す。嫁も余裕がない。黙々と歩く。

17時半無事、揃って鳥居をくぐり下山。ありがとうございました。

あとは駐車場まで川沿いを歩く。

18時過ぎ、駐車場着。ヘっちんを着ければいいのにもはやそれを取り出す余裕もなかった嫁。そういう時こそ危ないと思うのだが、、、ちゃんと見えているか私もへっちんを消して歩いた。まあ、なんとか見えた。

18時半出発。ここから家まで3時間か。遠い。普段のスピードに反応がついていかない状態なので、ゆっくり走った。

21時半、帰宅。ヘトヘトだ。

また来たいと思う。しかしスケジュールを見直す必要があるし、米をはじめとして水と燃料をたくさん消費する食材については考え直す必要がある。(朝米を炊くのは3合で十分)

我ながら危なっかしい山行であった。改めて行程を振り返ってみる。行動時間と休憩時間を合わせた時間と、地図に記載されている参考タイム(休憩時間は含まれない)を比較すると、

1日目:家から登山口まで3時間30分、登山口からテント場まで5時間15分。行動時間3時間25分(参考タイム3時間40分)

2日目:テント場から山頂まで2時間35分。行動時間1時間55分(参考タイム:1時間20分)、山頂から登山口まで6時間45分。行動時間5時間(参考タイム:3時間10分)、登山口から家まで3時間半

2日目については全ての行程を合わせると12時間45分。無茶なスケジューリングだ。食料は米2合、棒ラーメン6食分、缶詰1缶、他補給食ちょっとが残った。水場は2箇所あり、行動時は500mlの水筒分で十分足りた。

では次回、二泊三日のスケジュールにするのか。前日入りして登山口近くのキャンプ場で一泊。1日目に山頂まで行って折り返し、愛大小屋泊。二日目にそこから出発すれば15時には下山できるし、帰りは温泉に浸かれる。