茄子、ゴーヤ、かぼちゃ、ジャガイモ、オクラ、にんにく、青じそ、バジル
ピクルス納品
お盆前には草刈り
お盆を前に畑周りを全部刈り上げました。炎天下を避けて少しずつ進めますが、小雨の日は一日を通して動けるチャンスです。
今シーズンは初めてお茶を摘みました。茶の木は至る所に植えられていて、管理するのが大変です。上っ面を刈るだけではツル絡みや間から出てくる灌木や茅で雑然としたまま。ではといって、元から刈り飛ばすのもそれはそれで大変ですし勿体無い。鎌と手鋸で一株一株手入れする必要がありますが、収穫するとなって初めてその手間をかける理由ができるというもの。長年持て余してきましたが、いよいよやるしかないと結論に至ったわけです。とはいえ、連日草刈機を振ってからの一株毎の手入れはそれだけで丸一日。これを年に何度やらなければならないか。それでも人生で初めて炒って揉んでして、えびらに並べて干してする行為には始終いい香りが立ち上がり、淹れたお茶はなかなかのものでした。
親友の酒
日本酒造りに携わっている親友が、折に触れ酒を送ってきてくれます。これまでその美味しさに幾度となく励まされてきました。米という一粒が醸成されることによってこれほどまで濃厚に香り高く味わい深いものになるという圧倒的事実。それは揺らぎようのない指針として 、美味しさという品質、豊かさという品質は、あれこれ手を加え合成して作るものではなく、余計を削ぎ落とし時間をかけ醸し出されるものであることを思い出させてくれます。
農家で修行していた頃、彼もまた蔵に入り修行をしていると聞いて嬉しく思ったものです。大学に入って知りたかったことはとどのつまり、学問を研究して得られるものではなく、これと定めた実生活の中にしかない。紆余曲折を経て見切りをつけた私は、なんとなく彼においてもそうなのではと思っていたからです。20年以上が経ち、彼の人生にもいろんなことがあった思います。学生時代もそれぞれに模索していました。酒を酌み交わすも言葉にならないこと、できないことの方が多かったと思います。それでも、その存在をありがたいと思っていました。とかく流行りでものを言う人が多い中、そうじゃないだろうと共感し合える友人がいるのは心強いものです。
彼の杜氏になるべく第一歩として送ってきてくれた今回のお酒は、その気概を感じさせてくれるものでした。現場の技術が数値化されシステム化される流れにあって、杜氏としてのやりがいを見出せない現場もある一方、作り手としてだけでなく蔵の方向性を示す重責をかつてないほど担わなければならない現場もあるということでしょうか。ぜひ頑張って自分の道を伐り拓いてもらいたいです。
【気概】困難を積極的に乗り越えて行こうとする、強い気持ち。 (三省堂国語辞典より)
最近出荷の生鮮(7月下旬〜8月上旬)
きゅうり最盛期を迎えました
ついに細断機を導入
畑のようす〜7月上旬その2〜
畑のようす〜7月上旬〜
腰痛がマシになったならとにかく草刈り。埋もれたところを復旧させ、刈草を敷いてようやく人心地着きました。キュウリが順調に育っています。仕込みもスタートしました。
ズッキーニは例年、生育のピークに梅雨真っ只中となり満足に実がつかないので、今年は種まきを2週間ほど遅くしました。6月早々に梅雨入りして下旬からは晴れ続き、いよいよ収穫開始と期待していたのですが、気温が上がりすぎなのか、調子が思わしくありません。何なら、すでに終盤の様相です。スタートを早めようが遅らせようが終わりは同じということかもしれないですね。
(黄色ズッキーニが部分的に緑色になるのは、これまで生育終盤に起こる現象でした)
この春は作付けが遅れて少なかったので(獣対策や支柱作りのため)、生鮮の出荷は限られ、レタスも早々に終了してしまいました。いずれにせよ気温が上がりすぎです。
さて、最近また我が家に入り浸っている半野良ちー坊。あるとき彼女を連れてきました。とても綺麗な黒猫で、警戒心が強くあまり居着いてくれそうにありません。いつか子猫を連れてきてくれたらなと期待しているのですが。
先日は久しぶりにウサギを獲ってきて自慢してくれました。食べ残しは鳶がさらってくれるので助かります。それにしても我が家の至る所に自分のお気に入りを見つけるちー坊。空き箱の中や洗濯機の横、土間のひんやりしたコンクリートの上、生垣に集めた落ち葉の上、薪割り台にしてる丸太など。季節に応じて、また陽の傾きに応じてポイントを移動したり、私たちが特に手入れをして整えたところを決まって「ここ、俺んち」にしたり。最近は新たに玄関下を見つけたようです。
まだ残っているビール箱だったり
こんな隙間だったり
これは唯一こしらえてあげた寝床
昨今は猫の飼い方が色々厳しいようですが、ここいらは結構放任で、それを地域もおおらかに見守っているようです。例えば畜産農家の方がネズミに飼料を食べられないよう猫を飼っていて、それが自由気ままに何処かの世話になっていてもそれはそれ。いろんな家で可愛がられているようで時折話題に上ります。ふぐりをそのままに山野を駆けまわるちー坊の姿は、とても理想的のように思います。繁殖期にはいろんなのが来て賑やかになりますが、それでも増えすぎて困ったりということはありません。きっと、山の暮らしそのものが厳しいからだと思います。ちー坊も自分の縄張りを死守するため、血だらけになって帰ってくることもあります。それでも夜になったらヨレヨレ出かけるその姿は何ともいじらしい。他は知りませんが、家に上げることはしません。それぞれの領分があり、それをちー坊もわかっているようです。
体力とは、老いとは、
5月はようやく時間が取れたのでしっかりトレーニングをしました。毎日ローラーを軽めに回し(ロードバイクのトレーニング)、週一で2時間半ほどの乗り込みもしました。旧土佐山村高川に行って帰ってくるコース。50分ひたすら登って20分下り、80分かけて登り返し10分下る、中山間地ならではのコースです。各種苗の植え付けやオクラの種蒔き、合間の草刈りなど、仕事との兼ね合いもあり、以前よりも軽めを意識しました。
3週目あたりで結構疲れが溜まっていたのですが4週目で意外と調子が戻り、疲労と回復がうまくいっていると思ったところが勘違いだったようです。6月に入って梅林の草刈りをしているときに脇腹の筋が切れたような感じからあれよあれよという間に腰が痛くなって作業を中断。しばらく安静にしていたら治るだろうと1週間経っても一向に治らず、整体に行って一旦回復に向かったのですが、その1週間後またぎっくり腰のような感じになってしまい、さらにもう1週間。結局3週間以上満足に仕事ができない状態になってしまいました。梅雨真っ只中、草を刈らないと畑も家も山に呑まれてしまうのにどうすることもできない。かなりの痛手です。
体力をつけ仕事のパフォーマンスを上げていきたいのに身体がそれに耐えられず続けられない。これが老いというものなのか。しばらく意気消沈しておりました。自分が思っている以上に回復に時間がかかるということ。身体に何か異変が起こった時には費用を惜しまず整体の世話になる。仕事を続けていくための試行錯誤が続きます。
私が動けない間、嫁が刈り払い機に初挑戦し、埋もれそうになっていた作物の救出も頑張ってくれました。周りでは70代80代の女性も刈り払い機を使います。それは若い頃から培ってきた体力があってのこと、誰でも当たり前にできるものではないでしょうし、無理は禁物、本人がやろうと思えるかどうかです。嫁も山暮らし仕様になってきたでしょうか。