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気になっていたところを片付ける

腐食して取れたままになっていた風呂の焚き口と煙道の掃除口を修繕した。慣れない左官仕事。ひとつひとつ型枠を拵えて隙間を埋めてどうにかこうにか形になった。これで火の始末が丁寧に行えるし、薪の消費も最小限で済む。

隣家の火事が脳裏に焼き付いている。心身ともにまだ正常とは言えない。火事のあった夜中の1時頃になると決まって目が覚めたり、何かの物音に反応して寝られなくなったり、夢にみることもある。これでは身が持たないとわかっているけれど、寝ていても何かあればすぐ気が付くようにとも思うので割り切っている。人のふり見て我がふり直せではないが、お風呂にストーブ、私も日々暮らしの中で火を焚くので改めて気を付けなければと思う。

野良の2匹、ここ最近はチー坊が寝床を自分のだと主張して喧嘩になることもしばしばです。元来穏やかなQ太郎は困惑顔。そもそも我が家という餌場を教えてあげたのはQ太郎なのだけど、チー坊は自分もうさぎを獲れるようになったことで勢いづいてるのか。。とはいえ、確かにあかんタレなチー坊もそれなりにゴツくなってきました。嫁にひしと抱きつく肩周りがもうおっさんです。おいおい。しかし、寒波の間はご覧の通り。なんともかんとも。

家の改修

抜本的な工事が求められる我が家。土台や柱、壁や屋根もいずれ順を追って可能な限り総入れ替えしなければならない。今回は東の壁と足元。

覆われていたトタンを剥がすと思っていた以上に深刻な状態だ。屋内の壁にしみが出てきたり、草のツルが入ってきたりしたのも納得である。はじめにこの実態を知っていたらここで暮らそうと思えただろうか。ここで10年以上寝起きしていたことが、お伽話に思えてしまう。

開ければ開けるほど途方に暮れる。結局壁の大部分を剥がすことに。竹木舞に土壁は貴重ではあるけれど、それを復元する猶予はない。とにかくシロアリの進行と家の歪みを食い止めることが先なのだ。

荷重が集中している柱は根本が曲がっていて、骨組みが全方向に歪み波打っているのが素人目にもわかる。時折聞こえる軋みはまたひとつ変形が進んでいたということなのだろう。隙間だらけの障子一枚向こうは外、底冷えのする家に体力をすり減らされてきた感じがする。これまではなんでも勢いで来れたけれど、これからは無駄に消耗しないようにしたい。

我が家をはじめから見続けてくれている大工のお兄。仕事ぶりについつい見入ってしまう。なんでも一人でやってしまうのだ。

お兄の仕事に、ただただ脱帽。自分も自分の仕事を頑張らねばと思う。

火事にあって思うこと

10月10日未明、隣の空き家が火事になった。

大雨か雹か、何かがトタンを打つ激しい音に目を覚ました。次の瞬間、けたたましい足音とともに嫁が火事だと叫んだ。悲痛な声とはこのことか。胸にビリビリ裂けるような痛みが走る。障子越しからでも異変がわかった。裸足のまま庭に出るとあたりは真っ赤になっていた。激しい音を立てて炎が上がっていたのだ。何故これほどになるまで気付かなかったのか。誰も使っていないはずの隣家の納屋が火の中に骨組みだけを見せていた。もはや自分でどうこうできるものではない。何故そこが燃えているのか、思考が働かない。我が家とはほんの小道を挟んだすぐ隣だ。消防の番号を押そうにも緊張で目が霞む。ワンコールで繋がった。家々へ知らせに回った。皆寝静まっていた。喉が枯れて声が思うように出ない。指笛を鳴らし、何度も叫んだ。戻ると庭に火の粉が降っていた。粉ではない。熾の塊だ。冬枯れした芝生の方々で火が上がる。足で踏んで消して回った。とにかく少しでも火の勢いを弱めないと。火元へバケツで消しに行った。水場とを2、3回行ったり来たりしただけで、息が切れて喉がカラカラになった。腰が抜けそうだ。隣接する工房のプロパンガスのことを思い出してコックを閉めに行った。タンクが驚くほど熱くなっている。壁板も熱い。もう近づいたらいかんと声がした。

消防が来た。あと少し遅かったら工房も我が家も全て燃えていた。壁が燃え始めていること気づいた地元消防団の知人がこちら側に放水するよう指示してくれたのだ。じわじわ煙が上がっている板壁の一部から一瞬火が吹いた。それは、全面が燃え上がる前兆だった。

裏山の植林を伐り、まめに草を刈っておいてよかった。でなければ山火事にまでなっていただろう。隣家は納屋も母屋も全焼した。

数日経って、疲れがどっと出てきた。寝れないのだ。

 

新聞の報道に呆れた。火事の要因と考えられるモミガラ燻炭の不始末。離れを間借りしていた当人は過失を認め、事情聴取を受け、現場検証にも立ち合っていた。警察にも消防にも、そして周りにも誰かは伝わっていることなのに、新聞は何を勘違いしたのか、家を焼かれた貸主が燻炭作りをしていたと書いたのだ。しかし、翌日の朝刊に詫びも訂正という形も取られてはいなかった。誤解を解く内容ではあったが、前日の報道を詳しくしたという体であった。

社会とはそうしたものだと思うとやりきれない。今回の火事についても、責任を追及したいわけではないが、過失なところとそうでないところがある。籾殻燻炭による火事というのはよくあることとして知られており、消えたと思っても中で燻っているもの。なので、普通、納屋や小屋など建物にしまうものではない。そもそも、当人は貸主に断りもなくその納屋を使っていた。問いただしてみれば、危ないものとしての認識はあったという。しかし、ならば自分の目の届きやすい近くに置くべきところ、どういった了見で母屋を隔てた奥にある納屋に置いたのか。逆に我が家の目と鼻の先ではないか。実際、はじめに火事に気付いたのは私たちで、通報が少しでも遅れていたら間違いなく我が家は燃えていた。話してみても、その意味するところに考えが至らないようなのだ。幾度となく悪く捉えないようにしようとするものの、これまでもそうであったが、彼のその後の行いを見るにつけ、抱いてきた不信感は得体の知れない不安へと変わってゆく。土下座までして謝罪はするものの、こちらと向き合うことはしない。

あの償いの言葉は何だったのか。熱中症になりそうなほどの炎天下で焼け跡の片づけが連日行われ、兎にも角にも片付いた。ならば、言葉の通り、粛々と荷物をまとめるものと思っていた。が、一向にその様子はない。

償いきれないということ。それでも償うべきを償うためにこれまでの人生を諦める。そんなことなかなかできるものではない。といって、開き直って悪びれず、なかったことにする態度が更に相手を苦しめ不安を強いる、ということさえも知らぬ存ぜぬで通すというのか。

とにかく、我が家は無事だった。工房の壁が焼け、窓ガラスが割れ、他にもそれなりに被害を被ったが、修繕ですみそうだ。悪く考え出せばキリがないし、悪様に言えばそれは自分に返ってくる。自問自答を続けるうち、戦うべきは己のみというところに落ち着く。ところが、物事はそう簡単には終わらなかった。二次被害とはこういうことなのかと思わせる出来事がさらに続いた。火事そのものよりも質の悪い、傷を癒えなくさせるものだった。

 

何とか気持ちを切り替えようとするものの日常を取り戻せずにいたある日、新聞に後日談のような形で記者による投稿が掲載された。困惑する被害者家族から、その内容についてどう思うか問われた。被害を受けた当事者への取材は一切ないまま、火事を起こした彼の人物像を、都合のいい思い込みのまま一方的に擁護するものであった。

自らの過ちを誤魔化すため虚構に虚構を重ねる。相手に潜んでいるかもしれない狂気を怖れるあまり言葉を選ぶ。いろんな人の濃淡入り混じった恐れが堆積して物事の真相をぼかしてゆく。我が身可愛さに、なんなら、その中に美談を見つけてでも一件落着させたい周囲の同調圧力。

実情を知らない、自らの生活に関わりのない第三者ほど、寛容であることを押し付けてくる。失敗は誰にでもあると加害者に同情するあまり、被害者が置き去りにされ、逆に被害者が受け入れ難きを訴えようものなら、立場が逆転しかねない圧力。身の内を吐露し、誰かに同意を求める行為は、相手を吊し上げる加害行為になってしまうのだ。心情としては当然のはずが、黙って口をつぐむしかない。被害者をそういう状況へ更に追いやるものだった。まだ渦中にいるのに、もう済んだことにされる。許す許さないどころではない、負った傷は依然生々しく、夢にうなされ、ちょっとした物音に目が覚め、未だ眠れない夜もある。正直、もう忘れさせてほしいのに、「地域は温かくこれからも隣人であり続ける」と締め括られていた。

実際のところ、火事が過失である以上、追及されるべきでないのだろう。誰だって何かの間違いで起こしてしまうかもしれない。だから、事件性がある場合や、被害者が刑事告訴しない限り、その原因や責任の所在が明らかにされるものではないらしい。だから、突き詰めて言えば今回の場合、結局のところ火事の原因は不問ということになる。

そういった事情を知らなかった私は後日訪れた消防署員に原因は特定されたのか訊いた。邪推と受け取られても仕方がないが、当人のあまりの開き直り様、そして、実家を焼かれた人の心情や、これまで積み重ねてきたものを全て失い死ぬかもしれない思いをしたこちらの心情を顧みない傍若無人振りを目の当たりにするうち、ひょっとして、彼は、自分が原因ではないかもしれないという安易な処に落ち着こうとしているのではないか、という不安が頭をよぎり空恐ろしくなった。だから、確定したのかどうか気になったのだ。全ては誤魔化され、隣人であり続けるのが無理ならば、こちらが出て行くしかないというのか。被害者であることを振りかざすつもりはないが、しかしである。

消防署員の顔色が変わった。何故それほど気になるのか、当人との関係に何ぞ問題でもあったのか、問い返された。なるほど、火事の要因が籾殻燻炭であるには違いないが、発火原因は分からない。まあ、ないとは思うが、君がその発火原因と考えられないこともない、悪いことは言わないからこれ以上は立ち入らないようにと釘を刺されたのだ。

助言として受け取るべきなのか。しかし、まさか自分が疑われる可能性があるとは思ってもみなかった。第一通報者だから?彼を良く思わないというだけで?冤罪というものの恐ろしさ、堪え難さに初めて想い至った。かつてないほど精神の均衡を保つことに危機を感じた出来事であった。

人が違えば見え方は違うのだろうか。渦中にいると自分を見失いそうになる。幾度となく悪くとらえないように務めた。しかし、ついには面と向かって拒絶する必要があった。あろうことか、野焼きを始めたのだ。一日で終わらず、二日、三日と繰り返された。そして、空っ風吹くなか黒煙を上げ、異臭を上げ始めた。まだ周囲は気づいていないというのか。異常だと感じるのは私だけの主観でしかないというのか。ならばそれでもいい。偏った主観として、止めるよう断固として訴えるしかない。折しも、発泡スチロールの箱を燃え盛るドラム缶の中へ次から次へと投げ入れるところ、通気孔からは火が吹き出し、時すでに、近くに積まれた丸太に引火していた。にもかかわらず、当人は気付いていない。建物が隣接し、またもや手遅れになる所だった。しかし、それでも尚であった。また謝りはするものの、農作物の加工をするためと尚も食い下がる。これを機にようやく事は動き出した。こんな、つまらないことで、人生を台無しにされたくないという必死な思いだった。

考えないようにする。気にしないようにする。見ないようにする。いつか終わりが来ると信じて耐え忍ぶ。本当にそんなことが出来ただろうか。火事から半年が経とうとしていた。

 

石鎚参り

改めて今後の予定を考えると、この秋、私たちの山行チャンスはとても限られていることが判明。天気予報を見れば週末から当分天気は下り坂ということで、いよいよ悠長に構えてはいられない。石鎚へ。

裏参道と呼ばれている面河ルートは登山口から山頂まで1100メートルほど標高を一気に上がるので以前登った土小屋ルートよりも難易度は高いらしい。しかしその分、人が少なく、渓谷美や植生の豊かさで人気のようだ。怖がりな私たちとしても少しずつ山行を重ねるたび欲が出てきて、もっとボリュームがあって楽しめるルートに挑戦したい気運が高まっていた。切り立った断崖を何の確保技術もなく登りたいとは思わないけれど、なぜ自分達がこれほどまで山登りに引き込まれていくのか、日帰りからテント泊、初級とされるルートから中級、少しずつその先へハマる理由がわかる気がするのだ。

里山は、いかに暮らしに役立てるか、いかにお金に換えるか。だから、手付かずのというのはただ遊ばせている状態にしか映らない。そこもここも誰かの山であって、普段は自分が借りているごく限られた範囲にしか入らない。そこは手入れすべきところであって散歩するところではないのだ。支障木を伐り木漏れ日が差し込むようになったことを喜びはするが、頭は常に課題に占められている。

立派な木々に囲まれるとホッとする。しばし浮世を離れ、お山参りに来たということなのだろう。

とても手の行き届いた参道が続く。石段が積まれ所々木道が拵えてあり、朽ちた箇所には補修が施され補強され、危険なところにはロープが渡され安全を確保されている。人の善意を感じるからホッとするのかも。

今回の装備は下記の通り。

 

私(35ℓのザックに10ℓ外付けで約15キロ);二人用テント、グラウンドシート、銀マット、スリーピングマット、寝袋、衣類、水2.5ℓ、弁当1食分、生米6合、棒ラーメン4食分、缶詰1缶、他補給食、ビール500ml、調理器具類、トレッキングポール、その他

嫁(30ℓザックの限界?キロ);ツェルト、スリーピングマット、寝袋、衣類、水1.5リットル、弁当1食分、パスタ2食分、肉味噌、棒ラーメン2食分、他補給食、ビール350ml、調理器具類、トレッキングポール、その他

食料は何かあった時のために6食分。(一日目;昼と晩、二日目;朝と昼と晩、三日目;朝)他補給食。

重いので一歩一歩ゆっくり登る。道標に記されている所要時間はあまり参考にならない。

頂きが見えてきた。今回は手前で一泊し、翌日に目指す。今朝は3時に起きて弁当を作り、畑に水をやり準備万端7時まえに家を出た。池川から松山街道を経て面河に入る予定であったが、途中全面通行止めにあって引き返し、国道33号仁淀川町を経由して1時間ほどのロス。結局3時間かかった。今日は早めに休みたい。

16時前に本日の目的地、愛大石鎚小屋に到着。綺麗なテン場が拵えてあってとても助かった。草も刈られていた。

まだまだ慣れないテント張り。張りを調節する自在鉤のような部品をどう使ったらいいのか、あーでもなこーでもないと言いながら正解を探す。今更人に聞けないし、自分なりに工夫するのがアウトドアの醍醐味なのだから。胡瓜の支柱張りやトラックに荷を積む時に使っている紐やロープの締め方を簡略化するための部品なのだろうかと思い至ったところで解にたどり着く。これが楽しい。整えられたテン場のおかげでしっかり張ることができた。

もう一つあるテン場には星を撮りにきたというベテラン登山者の男性。必要最小限の荷物、手際良い設営。食事はそこそこにカメラ。野営という感じが楽しそう。気づけば石鎚の山が赤く染まる。

我が家は昨晩仕込んでおいたスモークチキン(鳥もも肉の塊を薪火で燻しながら焼いたもの)とショートパスタに嫁の肉味噌(茄子たっぷりを煮詰めたカレー風味)。そしてビール。一本でもあると嬉しい。

星空を楽しむ。メガネだとそもそもあまり見えないから、せっかくだけどそれなりにしか見えない。きっと満天。月は出ていないのに明るい。星で明るいのか西条や新居浜の灯りで明るいのか。

四時ごろに目が覚めて夜明けを待つ。コーヒーを淹れる。美味しい。これが楽しい。

明けるにつれ気温が下がるのを感じる。これもまた楽しい。

朝は昼の分も用意するため米を4合炊く。しかし、焦付きを恐れるあまり芯が残ってしまった。これを昼も食べないかんのか。

あまりにも美味しくないので水を加えてお粥にする。そうなると食べた後の飯盒も食器もえらいことに。ここに水場はないので、ザックに外付け。これも勉強と言い聞かせる。

撤収作業がもたつき出発は8時。しかしコンパクトなパッキングをベテランさんに褒められた。

15分ほど歩いて水場に到着。時間はかかってもしっかり洗う。アクリルタワシを持ってきて正解。汚れたままが一つでもあるとあれもこれも全てが汚れてしまう。水場はありがたい。使い果たしていた飲水も補給。と、そこで嫁が気付く。ほぼ垂直な岩肌を流れる少なめの水。わたしが洗っているところだけ具合よく岩肌から離れて落ちているのだが、それが岩の形によるものではなくて、引っかかった落ち葉によって、偶然蛇口から流れる水のように落ちていたのだ。なるほど、道具とはかくなる物。岩肌を舐める水もそうやって何か適当なものを据えれば洗いやすく汲みやすくなるのか。これぞ山登りの醍醐味。

ああ、晴天。我、秋晴れを満喫す。

人で混み合っていた山頂はお参りだけを済ませて早々に退散。

11時前に出発。ここからひたすら下る。

何かあった時のためとはいえ、水2リットルを余計に担ぎ続けたのがいけない、足にきてしまった。水場での昼ごはんを終えてさて出発、担ごうとしたときにバランスを崩し谷に向かってつまづいた。その拍子にあろうことか、近くにいた嫁の足を踏み蹴ってしまったのだ。うずくまる嫁。

足首を捻挫させてしまったのか。なんということだ。持ち上げようとした15キロの荷物、重い登山靴。自分はバランスを取るために必死で、踏ん張りがきかないとはこういうことか、ザックを支えに数歩、谷へ頭から落ちずに済んだものの嫁を巻き込んでしまった。登山口までまだ半分以上、4時間以上ある。

押さえている箇所に表立った傷は見当たらない、嫁は少しづつ落ち着きを取り戻し痛みはマシになってきたという。しかし、すごい重みだったようだ。腫れはない。歩けそうという。うむむ。すまない。

しばらく歩いて、テント泊した場所へ到着。どうやら大丈夫のようだ。よかった。しかし、二人とも確実に疲れている。

焦らずゆっくり、いざというときはもう一泊すればいいとはいうものの、ふとした瞬間足が思うように上がっていなかったり、踵が下手に着地したり、たびたびバランスを崩しそうになる。最後の水場に来た。15時。あと2時間ほどの地点。今一度集中できるように、コーヒーを淹れて気持ちを切り替えよう。コーヒーが、カフェインが、体に染み渡る。最高に美味しい。塩羊羹がうまい。

ここから段差のある石段の下りが始まる。

そして、また、転けそうになってしまった。2本のストックでなんとか支えられたもののひやっとした。もういかん。水を捨てよう。のこりはあと少しだし迷うような道ではないからここまできてビバークはないだろう。肩が圧迫されてか、寝不足からか少々頭が痛い。心なしフラフラする。2リットルを捨てる。担ぐと驚くほどに軽い。血流が通った感じがする。馬鹿らしいくらい軽い。どら焼きを食べた。そして、トレッキングポールをしまうことにした。まだまだ使いこなせていないというのもあってつい力んでしまうし、石段とは相性が悪いように感じたのだ。段差のきついところは手をついて体全体を使い局所への負荷をできるだけ分散させるように、そして自分のペースでリズムを作り少し速めることにした。大分楽だ。

嫁が作ってくれたクルミとひまわりの種を炒ってドライフルーツと合わせた特製補給食を食べた。塩が効いていて美味しい。なんとかいけそうだ。すまんが嫁のペースに合わせる余裕がもうない。とにかく自分のペースを取り戻して転けないことが大事。先を行っては追いつくまで待つのを繰り返す。嫁も余裕がない。黙々と歩く。

17時半無事、揃って鳥居をくぐり下山。ありがとうございました。

あとは駐車場まで川沿いを歩く。

18時過ぎ、駐車場着。ヘっちんを着ければいいのにもはやそれを取り出す余裕もなかった嫁。そういう時こそ危ないと思うのだが、、、ちゃんと見えているか私もへっちんを消して歩いた。まあ、なんとか見えた。

18時半出発。ここから家まで3時間か。遠い。普段のスピードに反応がついていかない状態なので、ゆっくり走った。

21時半、帰宅。ヘトヘトだ。

また来たいと思う。しかしスケジュールを見直す必要があるし、米をはじめとして水と燃料をたくさん消費する食材については考え直す必要がある。(朝米を炊くのは3合で十分)

我ながら危なっかしい山行であった。改めて行程を振り返ってみる。行動時間と休憩時間を合わせた時間と、地図に記載されている参考タイム(休憩時間は含まれない)を比較すると、

1日目:家から登山口まで3時間30分、登山口からテント場まで5時間15分。行動時間3時間25分(参考タイム3時間40分)

2日目:テント場から山頂まで2時間35分。行動時間1時間55分(参考タイム:1時間20分)、山頂から登山口まで6時間45分。行動時間5時間(参考タイム:3時間10分)、登山口から家まで3時間半

2日目については全ての行程を合わせると12時間45分。無茶なスケジューリングだ。食料は米2合、棒ラーメン6食分、缶詰1缶、他補給食ちょっとが残った。水場は2箇所あり、行動時は500mlの水筒分で十分足りた。

では次回、二泊三日のスケジュールにするのか。前日入りして登山口近くのキャンプ場で一泊。1日目に山頂まで行って折り返し、愛大小屋泊。二日目にそこから出発すれば15時には下山できるし、帰りは温泉に浸かれる。

工石山へ

春から続く緊張でいよいよ息切れしてきたころ、金木犀の香り、朝のひんやりと澄んだ空気が山行を誘う。気づけば4月の終わりから一度も行ってない。登山口まで家から10分なのが嬉しい。

晴れ渡る空

リンドウの花が迎えてくれる。

白鷲岩とはよく名付けたもので、鳥の背に乗っているような気分。眼下一面に景色が広がる。高くて怖い。私たちの間ではネバーエンディングストーリーのファルコン。

正面に見えるのが石鎚山かな。今日はその石鎚山へ登るための脚慣らしで、ザックの重量は15キロ弱。いい運動になった。嫁は初トレッキングポールに手応えを感じた様子。弁当も美味しかったし、木漏れ日の中、とても清々しい山行であった。

 

#40歳を過ぎたら体力づくり

大雨になると湧き水も濁って仕込みができません。というわけで身体のメンテナンス。休むのも仕事のうちです。

日々、草刈り機を使ういく農園。土を作るためにも、畑を管理するためにも、家の周りから裏山まで暮らしを維持するためにも、とにかく刈らなければ何も始まらない。農機屋さんのそれなりに値のはる草刈り機を4、5年で一台使い潰す負荷と使用量です。刈り草の細断に使うようになってからより消耗が激しくなり、今使っているものは3年目でガタが出始め、あとどれくらい持つのか分からない状態。同じように負荷を受けている自分の身体は大丈夫なのかしら。

振動を受ける手はまるで遠心分離器にかけられているよう。そして繰り返される捻れ運動、その負荷がどうしても膝に集中してしまいます。深刻な血行障害にならないためにも、膝周りを強化するためにも、また骨盤の歪みといった身体の偏りを整える上でも自転車はとても有効だと感じています。

19歳の夏、北海道の酪農アルバイトで体力のなさを痛感した私。一輪車いっぱいの餌運び、牛舎の掃除、大きなフォークで重いサイレージをトラックに積み込んだり、乾草をやったり、憧れの仕事を嬉々としてやっていたのに1週間で熱が出て身体の節々が痛くなりミルカーさえ持てなくなったのでした。将来農業で食べていきたいならこれではいかんということで始めたのがロードバイク。後から気づいたのですが、前傾して乗る姿勢が農作業における中腰に通じていて、痛めない姿勢を身につける上でもとてもいいのです。

とはいうものの、ロードバイク自体、乗りこなすのが難しい。力みのないバランスの取れた動作や姿勢を身に付けるのはなかなかです。10年以上のブランク、再開した当初はかえって膝が痛くなり腫れることも度々だったので、果たしてこのまま続けていいのか不安になりました。かつてはどう乗っていたのだっけ?100キロ、200キロ、なんの不安も故障もなく乗れたのに。一年以上かかったでしょうか、改めてセッティングやフォームなど見直すうち、筋力もついてきたようで、時には痛むものの大丈夫かなと思えるようになってきました。そして気づけば草刈り機による膝の違和感も随分改善されました。知らぬうちに随分と落ちていたものです。

できるだけ脱力して重心を意識し、股関節周りから骨盤、肩甲骨がスムーズに連動するようペダルを回転させる。調子が出てくると、より前傾しても動きの中でバランスが取れるようになる。サドルにもハンドルにも体重をかけず、頭の重みもペダルに乗せて回転数を上げてゆく。ふくらはぎは第二の心臓と言われるそうで、血液が全身を巡りとても心地よい。汗が大量に出ます。

いわゆる筋トレはほとんどしません。筋肉のどこを使っているか意識してやるそれは、いかに力まず楽に量をこなせるかという実際の仕事においてはかえって厄介な癖をつけてしまうからです。

 

カブトムシ

積んでおいた刈り草の中からカブトムシのサナギがたくさん。図鑑でしか見たことなかったけど、本来はこれくらい身近なものなのだろう。

ふたたび矢筈山へ

前回いろんな思いを抱えて登った矢筈山。

またこうして来られたこと。かけがえのない時間。

適度な運動と良質な睡眠が健康の秘訣ならば、そのために時間を惜しむことがあろうか、いやない。

年齢を重ね、身体と相談しながら仕事を進める日々。以前なら一気にできたことができない。もどかしくもあるが、落ち着くべきところに落ち着いた感があって、悪い気はしない。「ごとごと、休みもってやりよ。」とお年寄りからはよく言われたものだけれど、ただ、そう言われるままに、下手な怠け癖をつけなくてよかったとは思う。

前触れもなく攣りそうになる脇腹、足の裏。自分なりに気を遣っていても疲労が溜まれば痛みだす腰と膝。身体が正直に反応することは悪いことではない。幸運なことにヘルニアだったり膝に水が溜まったりというところまでは行っていない。

10時に登り始めて17時すぎ、無事に下山できました。かつてうどんを啜った茶屋がここにありました。残った基礎がなんとも小さくて、狭くて、たしか座敷まであったはずだけれど、、、なんだか狐につまされた気分。何年前の話と聞かれれば、15年ほど前?

鬼の棲む山と云われた稲叢山へ

作付けに追われる中そろそろ息抜きもしないと、というわけで春の息吹を感じる山へ。平家の落人伝説が残る稲叢山。かつては人を寄せ付けない深山だったところが、ダムの建設によって身近に。学生時分に自転車できたことも昨日のようです。が、それももう20年前のこと。

(2000年版ツーリングマップル)

住んでいた高知市朝倉から鏡村を越えて瀬戸の集落へ。帰りはどの道を通ったのか忘れてしまったほど、何気ない日常のことであまり遠いとも思ってなかったのが今では信じられない。昨日、地図を広げたとき、老眼のはじまったことを知る。こないだ知らない男の子に満面の笑みでおじちゃんと呼び掛けられたけれど、もはや否定する余地のない程に自分はおじちゃんになったのである。

思わず深呼吸したくなるような水辺。

どこまでも続く山々の連なり。個人がそこで暮らそうと思えば今も依然として深く険しい。

無事に下山できました。

明けましておめでとうございます

 

(工石山、北の頂から)

お陰さまで今年も年を越せました。

久しぶりに会いたいなと思っても会えない自粛する日々。マイナス7度それ以下の寒波が来るというので急いで里芋に刈り草をたっぷりかぶせ、薪や焚き付けを補充し水道の元を整えたものの、穏やかに晴れた正月三ヶ日でした。Q太郎もちぃ坊も方々でご馳走にありついたようで余裕があります。

当分、天気は安定する模様。嫁の方は手術の痕が時々痛むものの、だいぶん動かせるようになり、いよいよザックを担いでみようということになりました。市民の憩いの場である工石山には親子連れも。いいですよね、そういう正月の過ごし方。

今回の装備もいつものように、たとえ日帰りでも一泊分を用意しました。35リットルのザックにテント一式と寝袋。飯盒とバーナー一式。3食分の食糧はおにぎり、棒ラーメン、缶詰、生米、その他携帯食。水は1.5リットル。寝袋は相変わらずのペラペラなので、服を着込んで対応することに。

トレッキングポール は膝を痛めないためには必須だと思うようになりました。これからたくさん登りたいし、縦走やもっと重い装備になった時にはいずれにしても欠かせない。使い始めるとその理にかなっていることに感動します。四つ足動物になった感じ。足の歩みにどう連動させるか探っていくと自転車にも通じているところがあって面白い。上りも下りも自然と爪先荷重になるので膝がブレない。疲れにくい太腿の後ろ側と臀部を意識して使うことさえなくなった。歩くという概念が変わり、歩ける距離が飛躍的に伸びる予感がします。

山頂で食べるごはんはやっぱり美味しい。しかしおにぎりが冷たくて食べると身体が中から冷えてきて、たまらずお酒が欲しくなる。実は御神酒用にワンカップのさらに小さいものを忍ばせておいたのです。イワシの缶詰を開けてちびっとやる。これもまた山の楽しみ。5年後になるか10年後になるか、いつか雪山に登れるようになりたいなぁ。

南の頂からは土佐湾と広い太平洋、そして馴れ親しんだ高知の街が望めます。ここで淹れるコーヒーは格別。かつては羨ましいとさえ思っていなかったこういった一つ一つが、こんなにも楽しくありがたいと感じるようになったこと。はまる人がいるわけだと思う。