ここ数日雨が続いて作物も草も一気に元気になり、いよいよ作業日程も押してきました。
4月下旬にズッキーニを植えました。苗は上々の出来だと思います。
前回いろんな思いを抱えて登った矢筈山。
またこうして来られたこと。かけがえのない時間。
適度な運動と良質な睡眠が健康の秘訣ならば、そのために時間を惜しむことがあろうか、いやない。
年齢を重ね、身体と相談しながら仕事を進める日々。以前なら一気にできたことができない。もどかしくもあるが、落ち着くべきところに落ち着いた感があって、悪い気はしない。「ごとごと、休みもってやりよ。」とお年寄りからはよく言われたものだけれど、ただ、そう言われるままに、下手な怠け癖をつけなくてよかったとは思う。
前触れもなく攣りそうになる脇腹、足の裏。自分なりに気を遣っていても疲労が溜まれば痛みだす腰と膝。身体が正直に反応することは悪いことではない。幸運なことにヘルニアだったり膝に水が溜まったりというところまでは行っていない。
10時に登り始めて17時すぎ、無事に下山できました。かつてうどんを啜った茶屋がここにありました。残った基礎がなんとも小さくて、狭くて、たしか座敷まであったはずだけれど、、、なんだか狐につまされた気分。何年前の話と聞かれれば、15年ほど前?
作付けに追われる中そろそろ息抜きもしないと、というわけで春の息吹を感じる山へ。平家の落人伝説が残る稲叢山。かつては人を寄せ付けない深山だったところが、ダムの建設によって身近に。学生時分に自転車できたことも昨日のようです。が、それももう20年前のこと。
住んでいた高知市朝倉から鏡村を越えて瀬戸の集落へ。帰りはどの道を通ったのか忘れてしまったほど、何気ない日常のことであまり遠いとも思ってなかったのが今では信じられない。昨日、地図を広げたとき、老眼のはじまったことを知る。こないだ知らない男の子に満面の笑みでおじちゃんと呼び掛けられたけれど、もはや否定する余地のない程に自分はおじちゃんになったのである。
思わず深呼吸したくなるような水辺。
どこまでも続く山々の連なり。個人がそこで暮らそうと思えば今も依然として深く険しい。
無事に下山できました。
今年は無事に仕込むことができました。
うさぎの来る心配がない畑は限られていて、いく農園にとって人参はなかなかハードルの高い作物です。年々、勢力範囲を広げられており、昨年は思いがけずナスが茎から葉っぱまで全部食べられてしまいました。株元から脇芽が生えて持ち直してもまた食べられるの繰り返し。50株が全滅しました。
この冬に改めて周りの藪を整え直しました。伐採から5年以上経って気付けばまた鬱蒼として澱み始めています。始末に困って残しておいた柚の木。持ち主の了承を得て元から伐らせてもらうことにしました。鋭い棘は5センチにもなり踏み抜いてしまうと大事です。勿体ないようですがどうもしようがないので仕方がありません。乱立して刈り払い機の邪魔になっていた竹の切り株。ようやく、太い株も手斧の背で叩けば簡単にもげるようになりました。あとはQ太郎やチー坊にも頑張ってもらわないと。
石が多く粘質で人参には不向きな土地な上に、種蒔き時期の8月は特に雨が降らない。そして獣害。収穫に至るだけでも大変なのですが、人参は個体差が特に激しい作物で秀品率は決して高くありません。しかし、良いものは香り高く緻密でしっとり、とても美味しい。ピクルスに使えるのは収穫したうちの3分の1もあるかどうか。だからこそ一瓶一瓶に気合が入ります。
お陰さまで今年も年を越せました。
久しぶりに会いたいなと思っても会えない自粛する日々。マイナス7度それ以下の寒波が来るというので急いで里芋に刈り草をたっぷりかぶせ、薪や焚き付けを補充し水道の元を整えたものの、穏やかに晴れた正月三ヶ日でした。Q太郎もちぃ坊も方々でご馳走にありついたようで余裕があります。
当分、天気は安定する模様。嫁の方は手術の痕が時々痛むものの、だいぶん動かせるようになり、いよいよザックを担いでみようということになりました。市民の憩いの場である工石山には親子連れも。いいですよね、そういう正月の過ごし方。
今回の装備もいつものように、たとえ日帰りでも一泊分を用意しました。35リットルのザックにテント一式と寝袋。飯盒とバーナー一式。3食分の食糧はおにぎり、棒ラーメン、缶詰、生米、その他携帯食。水は1.5リットル。寝袋は相変わらずのペラペラなので、服を着込んで対応することに。
トレッキングポール は膝を痛めないためには必須だと思うようになりました。これからたくさん登りたいし、縦走やもっと重い装備になった時にはいずれにしても欠かせない。使い始めるとその理にかなっていることに感動します。四つ足動物になった感じ。足の歩みにどう連動させるか探っていくと自転車にも通じているところがあって面白い。上りも下りも自然と爪先荷重になるので膝がブレない。疲れにくい太腿の後ろ側と臀部を意識して使うことさえなくなった。歩くという概念が変わり、歩ける距離が飛躍的に伸びる予感がします。
山頂で食べるごはんはやっぱり美味しい。しかしおにぎりが冷たくて食べると身体が中から冷えてきて、たまらずお酒が欲しくなる。実は御神酒用にワンカップのさらに小さいものを忍ばせておいたのです。イワシの缶詰を開けてちびっとやる。これもまた山の楽しみ。5年後になるか10年後になるか、いつか雪山に登れるようになりたいなぁ。
南の頂からは土佐湾と広い太平洋、そして馴れ親しんだ高知の街が望めます。ここで淹れるコーヒーは格別。かつては羨ましいとさえ思っていなかったこういった一つ一つが、こんなにも楽しくありがたいと感じるようになったこと。はまる人がいるわけだと思う。
術後の病理検査の結果、嫁は浸潤性乳管癌という診断になりました。ステージは1。浸潤性とはつまり転移の可能性があるということ。但し、浸潤は摘出した腫瘍内に収まっており、周囲1センチの正常な組織にガン細胞は検出されなかったということでした。今後の治療としては再発を抑えるべく、週5日×5週(つまり25回)の放射線照射と5年間のホルモン療法(女性ホルモンを抑える薬の服用)が標準とのこと。
非浸潤という結果であったなら、放射線治療もホルモン療法もやらないと伝えていたのですが、「転移の可能性がないとは言えない」というとても微妙な診断であったため、改めて癌について、そして放射線治療とホルモン療法について私たちなりに理解してから決めたいと思いました。そして、1週間ほど猶予をいただいたのち、いずれの治療も受けないことにしました。幸いだったのは、その方針はありだと思いますよと担当のお医者さんが肯定してくれたことでした。突き放されるのではなく、そう決めたことについて後ろめたく思う必要はないですよと言ってもらえた時は、何だかほっとしました。これからは3ヶ月ごとの血液検査で引き続き様子を見ていただけるとのこと。
改めてこれまでの経緯を覚え書き程度に説明しますと、9月に入った頃、胸にしこりがあるのではと違和感を覚えたことから始まります。
まずは最寄りの病院へ。受診する診療科は週一回しか診察日がないので見つけてから何日も経ってしまいました。焦れた想いを抱えつつ診察を受ける。しこりというよりも元々乳腺が硬いそれなのだろうけど、気になるのであればどこか乳腺外科を探したらいいとのこと。地域のかかりつけ病院という位置付けであるからまず受診したのだけれど、何も手がかりを得ず唖然としてしまう。
9月中旬、改めて高知市内の乳腺外科へ。確かにしこりはあるとのこと。マンモグラフィー、超音波検査、細胞診。結果は2週間後。
9月下旬、検査結果。より詳しく調べなければ判らないとのこと。大したことないだろうとタカを括っていた私は少なからぬショックを受ける。にしても、わからないとはどういうことなのか、私にはそれさえわからない。
10月上旬、3日に渡って、MRI検査、組織診、消毒。検査それ自体が身体に負担を与える。造影剤を注入の上30分から1時間近く高い磁場にさらされるMRI検査。吐き気に苦しむ。組織診は細胞診と違い、部分麻酔の上、3ミリ皮膚を切って太い針でもって組織を採取する。出血もそれなりに。1週間後に結果が出るとのこと。
10月中旬、告知は午後に行っているというので行けば私たちのような夫婦連れと、いつもより静かな院内。それぞれが深刻な面持ちで距離をとっている。あぁ、何ということだろう。嫌が応にも緊張が高まります。そして、私たちは乳がんであると告知されました。血液検査による数値のいろいろ、手術は部分摘出か全摘か、そして、術後には週5日を5週の放射線治療と5年間のホルモン療法をすることが標準であると伝えられました。淡々と話が進むなか、呆然としそうになるのを切り替えて説明を聞こうとするのですが、言葉がなかなか頭に入ってきません。嫁は十分に覚悟していたようで、しっかりと聞いて質問もしています。大したものだなあ。看護師さんが別室で(カウンセリング?)今後のことで何か聞きたいことがあればというので、大まかに費用はどれくらいになるのか聞く。しかし、想定外の質問だったようでかえって困らせてしまった模様。あまり要領を得ない。費用はいくらかかっても構わない、なんて言えないから多少なりの心算として訊いているのだけれど、、、(高額医療費制度があることを他で知る。)
手術の日取り等相談。手術は約1月後。
10月下旬、CT検査。造影剤の副作用で吐き気と目まい。数日続く。しんどそう。
手術前カウンセリング
11月中旬、手術。(入院から退院まで5日)術中検査の結果、リンパへの転移はなし。摘出したがん腫瘍とその周囲1センチを病理検査へ。結果は4週間後。
経過診察。消毒。
12月上旬、診断結果。「非浸潤性、ステージ0」であったこれまでの診断が、「浸潤性、ステージ1」に変わる。
1週間後、改めて放射線治療とホルモン療法を受けない旨伝える。
ここまで約3ヶ月間、通院等に18日、市内に通うことになりました。その間、畑の方は9月上旬の種まき後、穂紫蘇の収穫と仕込み、ネギやニラの手入れ、生姜の土寄せ、ニンニクの植え付け、里芋の土寄せ、人参の草取り土寄せ、玉ねぎの定植など、取るもの手に付かずとなりながらも畑に向かいました。そうして10月も中頃になり順調に発芽していた葉物や大根、カブなどの草取りと間引きをしに行くと不織布の中で虫が繁殖しすでに致命的な状態。もう、嫁のことに専念した方がいいと思いました。これからのためにとはいってもこれからがいつまであるのかそれもわからない、そんなふうに考えてしまっては自分で足下を崩すことになりますが、とにかく今は貴重な二人の時間を第一にしたい。一緒に山登りしたこと、ビバークした晩のことは手術に向かう嫁を大いに力づけたようですし、私としても前向きな気持ちになるいいきっかけとなりました。
何事もそうだと思いますが、治療についてもどこまでを自分はよしとするのかとても判断の難しいところです。図書館で借りてきた数冊の限られた本。そこに書かれている言葉をどう理解するか、これまでの知識や経験、そして自分の拠り所である農業に置き換えて考えてみる。安全だというその根拠に納得できるのかできないのか。副作用については大丈夫という理由がそれを抑えるための薬があるからだなんて、、、どこまでが病気による苦しみで、どこからが薬の副作用による苦しみなのかわからなくなってしまうのではないか。予防すること。再発の可能性を数%でも下げること。その数パーセントの違いは決定的な違いなのか。わからないことばかりです。本を読み進めるうち気づけば、自分ならこうしたくないという選択の後押しとなる言葉を探す作業になっていました。
明確な外的要因がなくともがん細胞は一定の年齢を越えると誰の身体にも発現している。その真偽はさておき、体の免疫力を高めること、健全な生活を習慣づけること以上に自分達ができることはないというところに落ち着く。やはり、単純な答えなんてない。だから考えようによっては、今回の結果にもっと喜んでいいのではないか、早期発見できたことで悪性ではあったもののギリギリ間に合った、手術も成功した、それで十分と言えるのではないか。再発という重苦しい不安は放射線治療をしてもホルモン療法をしても完全には消えないし、そればかりか私達は新たな不安を抱えることになる。どういう心構えで生きたいか。いかに前向きに生きるか。置かれた状況は人それぞれ、誰においても当てはまる正解なんてないのだし。
思いが定まり、また一つ大きな壁を乗り越えたという嫁の晴々とした顔が何よりです。よかった、これでよかった。
里芋、生姜、人参は無事収穫を迎えました。
ちぃ坊は少年から青年へ。いたずらっ子ですが食が細く、Q太郎兄いの野太さには敵わない様子。
また山登りがしたい。そんでテント泊したい。すっかりその楽しさを知ってしまったいく農園。我らの裏山、工石山へ。
寒風吹き荒ぶ一夜。外へ出ればたちまち歯が噛み合わなくなるほど寒い。風邪引きそう、、、
寝袋にくるまり足はザックの中へ。私のシュラフは冬用ではないのでしっかり着込みますがそれでも寒い。上半身あたりのダウンがペタンコ。嫁がシュラフカバーよろしくツェルトをかけてくれました。が、これが大変、しばらくして気づくと結露でシュラフはベチョベチョに。それほどまでに断熱性を失っていた私のシュラフ。とにかく寒い、体の発する熱と失われる熱がギリギリ均衡を保っている感じ。嫁はほとんど寝られなかった模様。
しかしそうまでしてでも、美しい朝焼けを拝めれば、なんとも幸せな気持ちに。
一六タルトと淹れたてのコーヒー。嵩張るドリップポットはやめて、手持ちの保温ボトルでドリップ。湯は飯盒で沸かす。必要最小限をぴったりパッキングできるのが嬉しい。ベンチにはキラキラ氷の粒。
一泊できる装備を今のところ私35リットルと嫁30リットルのザックにまとめてますが、この気温までが限界かも。
土佐の海岸線が光ります。
小一時間歩いて河原に到着。仕込んできた肉味噌を和えてパスタの朝ごはん。水場があるところでは米を炊きたいけれど、限られているところでは少ない水で済むパスタが便利。「ソロキャンにオススメ!」と書かれたポップに踊らされ、水量豊富な川原で米を炊かないことに。まあ、今後知らない山へ行くための予行練習です。