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放棄地の手入れ

家と土地の契約がようやくまとまりそうです。そして、契約に含まれてはいたものの、利用権等いろいろ問題があって本腰を入れることができなかった放棄地、20aを畑にすべく、手入れを始めました。

土地がまとまってはいるものの、東と南を杉や檜の植林に、西をクヌギ林に覆われて陽がまともに当たるのはわずか2割ほど。太い灌木の他に始末に困る梅や柚子の木をバラや葛が覆い、水が滞り石積みも崩れています。今後いい畑になるかは東と南側の植林を伐らせてもらえるかどうかに掛かっているのですが、地権者にお願いするにもまずは耕作地に整えてからになります。生鮮野菜の出荷を充実させるためにも、輪作の中に休ませる期間を持たせることはやはり大事になると思うので、この20aの土地は重要です。

今年初めて作付けした畑と10年手入れしてきたものの昨シーズンで手放さざるを得なかった畑とでは、作物の生育も必要となる手入れも大きく違い、改めて年月と労力を積み重ねることでしか得ることの出来ない実力というのを感じました。放棄地の復旧作業や畑の基盤造りが骨の折れる仕事には違いなく、これまでを合計すれば1haを手がけ、仕方のないこととはいえ、その8割を手放しました。クラインガルテンの候補地になったからという一方的な理由で還すことになった30a。獣害対策と農地の集約というこちらの都合で、還した20aと作付けを諦めて草刈り場にした25a。全くの無駄骨だったとは思っていませんが、身体への負荷は蓄積されており、手の痺れや首、膝、腰の傷みなど、消えない代償を払うことになりました。今回手を入れ始めた土地がいい畑となるにはやはり10年かかり、50歳になっていることを思うと、これを最後にしたいところです。「人生、諦めと覚悟」とはよく言ったもので、ここでやるしかないということを今一度確かめています。

 

畑のようす

人参もニンニクも無事出揃いました。そしてエンドウを播きました。

      

生姜や里芋の収穫が始まりました。

不耕起栽培と鍬仕事

土地を集約し、隔年栽培から通年栽培へ。この畑ではキャベツの後作を人参。大根やレタスの後作にはニンニクを植えることにしました。

種を播くにあたり、敷き草が嵩張るので鍬を使って馴染ませることにしました。

ここで改めて不耕起栽培について触れてみたいと思います。

不耕起栽培は耕さないと書くので誤解を招きやすいのですが、全く耕さないというような、これまでの常識を覆す大それたものではありません。いずれにしても畑仕事には播き床や植え床を整えたり、収穫で掘り起こしたり、耕していることになるのでは?という仕事は往々にしてあります。ただ、耕す上では勘所や過ぎたるは及ばざるがごとしといった注意すべきことがあるので、逆に、耕さないことによる効果を考えると、必ずしも耕す必要はないというのが不耕起栽培です。

とはいうものの、何処までを必要とするのか見極めが難しく、つい不耕起という言葉にも縛られてしまいます。これまで耕すことを避けてきたため、出番のなかった又鍬。あくまで、畝は壊さないように、表層5センチから10センチを耕すにとどめるよう気をつけて刈草を土に馴染ませます。温故知新ではないですが、固定観念からはなれて鍬を振るえたとき、コツコツ聞こえる鍬の音が心地よく、とても清々しい気持ちなりました。

 

この夏

この夏は梅雨の長雨で地盤が緩んでいたところ台風による豪雨が直撃し、各地で地滑りが多発しました。当農園では一か所、畑の真ん中から下の道へ広範囲 にわたって地盤が沈み込み、一メートル弱の段差が生じてしまいました。(写真下の上段、畦に陰が出来ているところから畑の中に向かってるえぐるように地滑りが起きています)そもそも獣害によって耕作を諦め草刈り場にしていた土地でしたので、まだしもでした が、耕作しているところでも石垣が崩れ始めていたりするので、今後の維持管理が大変になりそうです。

そして、そこから盆が明けるころまで1か月まとまった雨が降らず、ズッキーニやキュウリは思わぬ不作となってしまいました。作付けしたのは手入れをはじめてまだ4年の畑、やはり実力不足は否めませんが、土を乾かさないよう、敷き草を厚く敷くタイミングが遅くなったのも原因の一つでした。例年よりかなり少量ですが、採れる分をできるだけ仕込みました。

一方、10年目となる畑のオクラやナスはその分、まずまずの出来でした。

毎年干ばつに豪雨に大変な夏です。川に行くチャンスも限られていましたが、シーズン最期は存分にきれいな川を堪能しました。

土作り

隔年栽培から通年栽培に切り替え、刈草を充分入れるようになりました。1aあたり軽トラ2車で、15aを耕作するために年間30車は必要となる計算です。今年に入って20車運びましたがやはり足りないので、冬作に向けても早く補充したいところです。

土を肥やし作物を育てる。作業はとても単純ですが目に見えて土が良くなると、いわゆる肥料が土ではなく作物を肥やすためにあったことに気付かされます。

細断して畑に入れます。茅だけではなくよもぎも沢山入っているのでいい香りがします。

 

にんにくの手入れ

 

昨晩はすごい暴風雨となり、鍬仕事はいったんお休みです。かわりににんにくの手入れをしました。運んでおいた刈り草を細断し株間に敷いていきます。

 

新しい畑

農地の集約に向けて新たに借りた土地に鍬を入れました。

ここは4年前まで慣行栽培の田でした。なので、借りてからまる三年何も作付けせず、ただ草を生やし休ませていました。

稲の刈り取り後、耕耘してくれていたおかげで順調に草が生え、十分な量を確保できました。ただ、茅の株がびっしり発達したため、畝立てをするのが大変です。管理機を通す前にその線上に生えていたもの全てを鍬で起こすことになりました。

 

農地の集約〜10年目の畑を手放す〜

年が明けて、決めたことを順次進めています。

先ずはじめは、隣町にある畑、約2反を返すこと。不耕起栽培においては年を重ねることでしか、肝心となる効果を期待することはできません。そして、かける年月をより効果あるものするには尚更、畑作りを入念にする必要があります。10年間そこに注いできた労力も思い入れも軽いものではなかったのですが、しかし一方で、先行きを考えれば条件的に問題があり、できるだけ早く手放さなければならないという矛盾を抱えてきました。畑の実力が作物の品質を決めるので、作付けする以上、全精力をかけるしかないわけです。今ではほんとうに穏やかないい畑になり、いよいよこれからというところでした。将来のことを考えて決めたことではありますが、その出来具合を見ると、やはり割り切れない思いは残ります。

独立当初は雨漏りのする町営住宅に住み、条件が悪くても声をかけてもらった土地から借り受けていきました。空き家も農地も限られていて贅沢を言える立場でもなかったからです。人家の庭のような土地を借りたこともありましたし、地代と維持費用を賄えなくなって返したビニールハウスもありました。経営の方向が定まっていなかった頃の話です。

土佐町に土地つきの家がようやく見つかり、町営住宅のあった街から農村集落へ。畑には片道20分かけて通うことになりました。永い年月空き家になり放棄された後の片付けや薮の伐採からはじまる新たな畑作り、消防団や地域の用事に手を取られるようになり、管理すべき土地を持て余すようになった頃から、断るべきを断り、いずれかを手放さなければ身が持たないと感じるようになりました。

そうして、依然、主軸とする畑を隣町の二つの集落に分かれてそれぞれ2反、隔年で栽培してきたところ、作年の春に一方の大半を猪に荒らされ、作付けをとりやめざるを得なくなったのです。暮らす集落以外に農地の担い手として複数の集落に属することの難しさ、今後の獣害対策を考えるにしても、農地を集約しなければ目処が立たないこともわかりました。急遽、家周りの畑を主軸に替えるため、刈り場から草を運ぶ軽トラを借金して買い、かねてより隔年から通年栽培へ試験を続けてきた結果にもある一定の自信を持てたので、ようやく手放す決心がついたのでした。この10年間にいろんな出来事があり、あらためて仕事について、進むべき方向について考えさせられました。家も土地も儘ならないものですが、住んで都と成すべく、今後も全力を傾けるでしょう。その上で満足な仕事ができるよう、経営規模をよりコンパクトにする方向に定まりました。

先日、地主さんにお伝えしたところ、快く了承して下さいました。これから順次草を刈って土地をならし、終いをつけて返します。何かを得るためには何かを捨 てなければならない。しみじみしますが、とても晴れ晴れした気持ちでもあります。これからは、管理すべき土地に追われることなく、じっくり畑仕事を楽しめ るようになるのですから。それに、振り出しに戻ったわけでもありません。家周りの畑もまた、じき10年を迎えるのです。

思えば新規就農してこのかた、いかにして本業の畑仕事に専念できる状況を作るか考えてきました。それは実務と同じくらい重要でエネルギーを要することでした。借りている家や土地のこと、地域との関係性において解決すべき問題は思いのほか多く、一朝一夕で片付くものではありませんでした。また経営方針についても、必要ならば幾度でも断り、進む道を明確にしなければ、今頃望まないところへ流され身動きが取れなくなっていたと思います。思いの外、心ここにあらずのオファーが多いことに悩まされました。世間が言うように、拘らず流れに身を任せれば思いもよらぬ運が開けるというようなことは、数々の出来事を経て、少なくとも鵜呑みにすべきではないとはっきり言えます。そもそも、その流れに実態はあるのか。確固たる意志もなく、誰も彼もが乗っかろうとして、本来そこに見出された核心を既に失なってはいないか。もしくは、お互いの足を引っ張る澱みになっていないか。やはり、続けるという事は大変で、いろんな問題を乗り越えなければならないわけですが、だからこそ、確かな積み重ねを感じられたとき、また進もうと思えるのかもしれません。

それからもう一つ、地域の寄合の席でお酒を飲むのをやめることにしました。返杯が果てしなく続く高知独特の慣習に呑まれ、これまで幾度も後悔してきましたが、身体が資本、40歳手前となってはこ れ以上、無為に擦り減らすわけにはいきません。日本酒を断ってビールで最後まで通したり、途中で抜けたり、お茶を挟んだり、いろいろ試行錯誤してきたのですが、 会計という役が付いて途中で抜ける事ができなくなったり、こちらから酌をして受けて廻らなければならなかったり、中途半端なことでは断れなくなったのです。年が 明け、小部落の人にまず伝えて協力をお願いしてきました。それでも、より大きい括りとなる部落の集まりや祭りとなれば、定着するまでその度に断り続けなけ ればならないとは思いますが、通すつもりです。これもまた結論を出すまで9年近くかかりました。しかし、晴れて結論が出たこと自体がよかったのです。