今シーズンの山仕事もいよいよ大詰め。春の道作りで伐る支障木は、枝が通信ケーブルにかかっているため、事前に枝打ちをする。農業にも通じることだが、山においても、根拠のない自信や楽観、そして、自負は危険だと戒めている。
言うまでもなく枝打ちは樹上に登って行うわけで、おいそれとできるものではない。いずれはと思うものの、やれるとも、やろうとも思えず随分経った。知っている事といえば、特殊な爪を靴に装着し、胴綱を使って登るということぐらい。一冊の本に一通りの方法や必要な道具がのっていればとっつき易いのだが、そういった種類のことでないのはわかる。とにかく、よく使われているらしいメーカーのものを取り寄せた。説明書きはないに等しく、特殊用具のため熟練者に適切な指導を受けるようにとのこと。そして、別途、墜落防止器具をつけるようにと書かれていた。しかし、製品ラインナップをみてもどれが樹上作業に適合するのかわからなかった。まあ、そういうものだろう。敷居は高くあって然るべきだ。
どのように使われているのか、林業の現場ではこれまで胴綱を安全帯として墜落防止器具といったものはなかったようだ。そもそもが特殊な仕事、無理と思うなら就いてはいけないし命の補償を誰かに求めてもはじまらないのだろう。山の仕事はきっとそんな事ばかりだ。とはいえ、根が怖がりにできている私としては、手間取ってでも安全を確保したいし、胴綱と爪のついた履物だけではあまりにも心もとない。安心を求めれば求めるほど海外の高価なクライミングツールがあれもこれも必要になりそうだ。樹種によってはいずれそういった道具も必要になると思うが、それはおいおい。以前、椰子の木に登る少年の映像を見たことがあったが、彼は裸足で胴綱一本で昇り降りしてたっけ。
墜落防止器具にかわる命綱を自分なりに用意する。ロープワークの本を参考に、ふたつの輪を作り両脚をそれぞれに通して上体に結び付け、家の梁から吊り下がってみた。が、自重でどんどん締め上げられ、痛たたと思わず声を上げてしまう。と、振り返れば、嫁が爆笑して泣きそうになっているではないか。いやいや、こちらは真剣なのだ。試行錯誤を繰り返し、実際に立木で試して、それなりに命を守ることはできそうになった。
思っていた以上に、靴に装着する爪の扱いが難しい。木に対する角度が甘いとグラグラ不安定になり、ともすれば食い込みが外れて体を支えられなくなる。胴綱はその爪の当たる角度を保つためのものであって、落下を防いでくれるものではない。この登り方は体重のほとんどを爪に託しているから、そこに一定の信頼を置けなければとてもではないが樹上高く登ることはできないし、いわんや作業をやである。胴綱を取り付けるベルトのズリ上がりも気になった。一日目は枝を一本切ることさえ出来なかった。不安がとてつもなく残った。命綱の改良と、なぜ爪が安定しなかったのかを考え、安定させるためのポイントを整理する。いたずらに下手を繰り返せば足首も膝も痛めてしまいそうだ。
翌日は珍しく頭痛が出た。寝込むほどではないが仕事にならない。樹上の空っ風で冷えたこともあったが、相当力んで体力を消耗していたようだし、緊張がとれずうまく寝られなかったからだろう。
日を改め、体力と集中力と相談して少しずつ進める。踏み外すことはほとんどなくなったし、胴ベルトのずり上がりもさほどではなくなり、二日目は枝を一本落とすことができた。三日目は二本以上落とすことができた。適切なところに適切な角度で一歩一歩確かめ、胴綱を操り、命綱をその都度、確保する。むやみに緊張するのではなく、抑えるべきポイントに集中し、作業手順と型を構築していく。踏ん張る足元は大丈夫かベクトルは合っているか、作業しつつ足裏の意識を忘れないようにする。それでも時折不安定になって緊張で気が遠くなりそうになる。樹表の歪なところは爪の当たりが悪くなるのだ。枝打ちのあと、特に枝が密集していたところは足の踏み場がないほどで、そういったことを樹上で気付く。気持ちを落ち着かせるのに一苦労しながら迂回ルートを探す。その後はルート取りをより入念にイメージするようになった。数日かけてなんとか問題となる枝を全部落とした。
キャパシティーを超えて頭がショートするような感じ、気が遠くなる。緊張から解放されたいという誘惑がふとよぎる。気がつけば、どこかに意識が飛びそうになったり、何か他のことを考えて集中が切れそうになったり、心と身体がばらばらに逃避行動をはじめる。思いとどまるにもエネルギーがいることを改めて知った。
思い出すのは小学生の頃、確か10歳ぐらいの出来事だ。学校から帰って家がたまの留守にもかかわらず鍵を忘れていたことが何度かあり、はじめこそ家族が帰るのを待っていたものの、怖いもの知らずで身軽さを自負していたわたしは、2階の窓が空いていることを幸い、雨樋を伝って庇から窓に取り付き、家に入ったことが何度かあった。当時の我が家は山を切り開いて造られた新興住宅地にあり、斜面に擁壁を立ち上げたその上に建っていた。下はコンクリートにタイル張りの階段だったのだから、危険極まりないことをしていたわけだ。そして、ある日もまた味を占めて取りついたところ、いつもの窓に敷布団がかかってあった。それが何を意味するのか察知できなかったわたしは、取り付いてはじめて、力が入らないことに気がついた。
自分の頭より高いところに取り付いているわけだから、足は既に庇から離れている。いつもなら上半身を使って肘をかけるところまで持っていき、あとは足をかけてよじ登るだが、そのはじめのところが滑って思うようにいかない。ともすればずれ落ちそうになる。駄目かと一瞬よぎった。庇に降りようとすれば、後のない足場と壁との隙間を布団が邪魔をして勢いそのまま落ちてしまうのは明らかだ。シーツを掴んであえなく落ちてしまうのを想像した。しかし、若さゆえの瑞々しい執着というのか、諦めずありったけの力を出して登ることができた。
幼少からのいろんな無茶は無意味ではなかった。とはいえ、一つまた一つ、限りある幸運を食い潰してきたようにも思う。歳を重ねヨレた感のある今、あの頑張りを、運よく、当たり前の如く、また発揮できるだろうかと、もはや疑ってしまうのである。楽観も自負もできない。あらかじめ作業負荷に対するリミット(制限時間)を設定しておく必要がある。
登山における事故というのはベテランであるか初心者であるかにかかわらず平等に起こると言われているらしい。山仕事においても、ケースはひとつひとつ異なるし、リスクの高い現場では精度が求められ毎度改めて怖いと感じる。実際のところ絶対に大丈夫ということはあり得ない。つまり、難しい木がその時うまく倒れたとしても、伐れるようになったということではない。経験を積み、次なる課題に直面した時、それを伐ろうと思えるかどうかでしかないのだ。
こういった仕事は怖がりで慎重過ぎるくらいが丁度いいのだろう。不安要素をやる前からあれもこれもと並べ立てるほどの怖がりであり、それらを漠然としたままには進めないほど慎重であるということだ。その時点で気付かない危険については、至らなかった自分の力量ゆえ仕方がない。とはいえ、仕方がないでは済まないから、年数をかけて経験を積み、抜けているところがないか考え続ける。そして、甘さや余計な危険が生じないよう、一人でやる。
危険なことを何故自ら進んでするのか。一言にはまとまらないが、見失いたくないものがそこにあるのは確かだ。単なる度胸試しではないし、蛮勇は望むべくもない。通過儀礼として、非常な試練を自らに課すというのとも違う。わかったふうなことを言いたくはないから、謙虚にならざるを得ない状況に身を置く、自分にとってはそんなことの一つなのだ。だから、今回頑張ったから十分ではなく、身体が許す限り続けなければならないのであるが、とまれ、根が気分屋でストイックに出来ていない私としては今シーズンはもういっぱいだ。気を取られてこの冬はほとんど自転車に乗れず、また膝や腰に不安が出てきた。ほとほと、コンスタントに続けることが苦手な我が身であることよと、ついぼやきが出てしまうのであった。