月別アーカイブ: 2016年9月

雑誌掲載のお知らせ

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「 AERA ‘16.10.3」

スタイリストの伊藤まさこさんの連載コーナーで、東京・千駄ヶ谷にあるGOOD NEIGHBOR’S FINE FOODSの一品として、ニンニクのレリッシュをご紹介頂きました。

気軽なホームパーティーの手土産におすすめです。

移住について(書き直しました)

(8月上旬に投稿した内容を書き換え、改めて移住について加筆、修正しました。)

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骨を埋める覚悟

農家に定年はなく、だからこそ、老後どのように働き、暮らしを立てていくかは常に念頭にある課題です。農家の研修生としてこの土地に移り住んできたとき、地の人から「骨を埋める覚 悟」を問われました。それは農業をする上でも、田舎で生きていく上でも、前提として不可欠な覚悟だからでしょう。ここで最期まで自力で生きていく覚悟。集落の一人として当事者になる自覚。14年経った今でもその重みを自分に問い直します。

働 いても生活保護水準以下の暮らししか出来ないワーキングプアや老後破産が社会問題となりました。そういった社会背景と昨今の移住ブームやUターンは無関係 ではないと思います。補助事業が整えられ、今や、田舎に来れば取り敢えずの職と家にあり就くことが出来るかもしれません。しかし、そこに老後の展望や骨を埋める 覚悟はあるでしょうか。土地に根ざすという田舎の本質をもうやむやにしてハードルが下げられ、覚悟を問うこと自体がナンセンスとする空気さえ感じます。

移住事業で食べている人は諸手を上げて移住を歓迎し、「来る者拒まず、去る者追わず」と田舎の寛容さを唱うでしょう。しかし、実情は違うのではないでしょうか。「骨を埋める覚悟」がないなら来ないで欲しいという声を聞きますし、そもそも寛容には必ず条件がつくはずです。寄り合いの席で「移住者が数を増やし意見することになればおもしろくない」と聞かされたときは昨今の移民問題を思い出してゾッとしました。しかし、同時にそういうものかもしれないとも思ったのです。上記の「田舎暮らしに殺されない法」には共感する事も多く、 是非、移住事業に関わる方や田舎暮らしに興味のある方には読んで頂きたいと思いました。

ほとんどの移住者にとって「骨を埋める覚悟」は、自身に問うたこともなく思ってもみなかったことだと思います。私も当初は戸惑い、農家で修行していた6年間、答えは出ませんでした。それでも先ず根を降ろさ なければ始まらないと独立し、土地を借り、鍬を入れ土を作り、仕事のベースを作り、そして今後もここで暮らしていけるよう、集落に住む一人として責任と義務を負い、断るべきを断り、至らないことや失敗も含めて信頼関係を築いていく、そういったひとつひとつをフルパワーでしてきたところ、もはや、この先、他所に移ってまた一から同じ事をやり直す余分な体力も無駄にしていい年月もなく、自らそうする理由がなくなりました。ひとつひとつ組み立てていかなければ、 体力が衰える一方で必要なお金が増える将来、自力で生きていくことは叶わないからです。

「土地に根ざしてはじめて、地に足がつき、仕事にも暮らしにも本腰を入れることができる。」時を経て、心からそう思うようになりました。どこでもできる仕事ではなく、仕事も暮らしも地域の今後と同一線上にある場合、そこで暮らしを立てていけるかどうか、問題があっても単純にお金では解決できないからこそ、ひとりひとり地域の今後を自分のこととして真剣に向き合わざるを得なくなるのではないでしょうか。つまり核心は、そこに暮らすことが仮染めで覚悟あってのことでないなら、人はその土地に対して愛着は持てても、当事者意識や責任感は持ち得ないということです。都合が悪くなれば他所に行けばいいと片付け てしまうでしょう。だから私ははじめに覚悟を問われたのではないでしょうか。

美しいとされる田舎の景色を形作り維持しているのは何処かの誰かではなく、そこに暮らす人々であり、土地に根ざすという確固たる価値観です。骨身を削り、犠牲を払い、何代にも渡ってこの土地を守ってきた「地の人」に対して、わたしはその恩恵に預かってはじめて一歩を踏み出すことができた「よそ者」に過ぎないということ。山を削り石を積み上げ田畑と屋地を構える、その石一つも積んでいない、水を引いてきたわけでもない。崩れていたものを積み直し、詰まった水道を復旧したといっても、あくまでそれは土台あってのことです。それをわきま えていなければ大きな勘違いをしてしまうでしょう。

土地を耕すのではなく、ただ景色を美しいと眺め、街のような暮らしをするつもりで田舎に移住する、その先にあるのは、その美しい田舎ではなく、中身のない別荘地や観光地、郊外の住宅地ではないでしょうか。それ自体がダメだと言うのではありません、ただ、そうなってしまうと、農業も林業も成り立たない土地になってしまいます。

 

「移住者」

映画「祖谷物語ーおくのひとー」も衝撃的な作品でした。

観る人によって受け取り方は様々かもしれませんが、とても厳しい視線でリアルに描かれていると感じました。他所からやって来て、いずれいなくなる人間が「地域を救おう」と叫ぶことの空虚さ。何が本当に必要かを自分の頭で考えずお上に従った結果、何を得るでもなく大切なものを失う象徴的な場面。

人をカテゴライズして見ることは本来意味のないことだと思います。しかし、田舎においては「地の人」と「よそ者』という二者に分けられることは、ある意味、道理だからこそ、自身について、よそ者はよそ者である事をわきまえなければならない。矛盾しているようですが、それは仕方のないことでもあり当然のことでもあるように思います。

いつの頃からか、「よそ者」は「移住者」という言葉に書き換えらました。かつては少なくとも一人一人を認知した上で指していたものが、そうではなくなったように感じています。少し前のことになりますが、役場で呼ばれる際、別の移住者の名前で呼ばれたことがあります。うっかりであったとしても、その職員にとっては私もその名前の人も同じ移住者でしかないという現れではないかと思うのです。それに限らず、地域の集まりで普段あまり関わりのない人に「あそこに畑を借りてるね」「あそこに野菜を出してたね」と声をかけられたことがありますが、全く身に覚えのないことでした。このように私のことと別の移住者のことがごちゃ混ぜになり、もはや誰のことを言ってるのかわからなくなることもしばしばです。あまり大げさにとらえるべきではないと思いますが、「移住者」とカテゴライズされることで、全く別の人と混同され、身に覚えのないことを私がしたことになる。そんなことはこの土地に移り住んできた人が数えるくらいだった頃にはなかったことです。なぜ数字を競うように移住者を呼び込もうとするのか。それは移住者という無意味な定義付けを一層厄介なものにし要らぬ諍いを生むことにならないかと危惧してしまいます。

これまでのよそ者は、既存の職場に赴任してきた人であったり、農林業に就くためであったり、少なくとも地の人にとってもそのよそ者が何の為に来たのか分かりやすかったと思います。しかし、田舎の本質のありのままを反映したハードルが虚飾され下げられたことで、何の為に来たのか真意の分からないよそ者が急激に増え、名前も顔も覚えられないくらいに膨れ上がり、もはや「移住者」という新たな定義で一括りにして片付けるしかなくなったのではないでしょうか。

移住者の一人である私でも、その言動に違和感を覚えたり、話が通じないと感じたり、その膨らむ数にとまどっています。価値観やとらえ方は人それぞれという以前に、集落は血縁によって形作られたごくプライベートな空間です。移り住んできた私たちは、いわば、「離 れ」を間借りする下宿人として、敷地内の畑を耕させてもらっているようなもので、地域の成り立ちから、そ れが事実だと言えます。何の為にこの土地に来たのか。取り敢えずではなく真剣に自分の人生を掛けて来たのか。真面目に地域と向き合う気があるのか。今一度、「骨を埋める覚悟」を問うて欲しいと思いますし、移住者一人一人そのことを真摯に受け止めてほしい。ただ安い物件として都合がいいから来る、おためしで住む、田舎の住環境だけを求め仕事はノマドに他所でする。「土地に根ざさないこと」を土地に縛られない「自由」とし、客人としてもてなされることに安住して責任を負わず放浪することを旅とする。その土地土地の文化、地域社会に通底する価値観さえもが軽く見られ混沌とし始めていることに少なからぬ危機感を感じています。田舎 においては、そこに骨を埋める覚悟がないのなら、受けられない恩恵や厚意があると思うのです。