月別アーカイブ: 2016年9月

雑誌掲載のお知らせ

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「 AERA ‘16.10.3」

スタイリストの伊藤まさこさんの連載コーナーで、東京・千駄ヶ谷にあるGOOD NEIGHBOR’S FINE FOODSの一品として、ニンニクのレリッシュをご紹介頂きました。

気軽なホームパーティーの手土産におすすめです。

移住について

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骨を埋める覚悟

新規就農で田舎へ移り住んだとき、地域から骨を埋める覚 悟を問われた。集落の一人として当事者になる自覚。ここで最期まで生きていくということ。身体が資本である農業で老後いかに生計を立てていくか。今でもその重みを問い直している。

働 いても生活保護水準以下の暮らししか出来ないワーキングプアや老後破産が社会問題となった。そういった社会背景と昨今の移住ブームは無関係 ではないと思う。補助事業が整えられ、今や、田舎に来れば取り敢えずの職と家にありつくことが出来るかもしれない。しかし、そこに人生をかけ、生業をもって個として立つ気概はあるだろうか。かつてのように、敷かれたレールもなく何ら優遇されない状況でも移住しただろうか。ハードルは下がったとして門戸が開かれ、覚悟を問うこと自体がナンセンスとする空気さえ漂わせているが、そもそも実体のないキャンペーン、かけられたハシゴはいつか外される。

移住事業で食べている人は諸手を上げて移住を歓迎し、「来る者拒まず、去る者追わず」と田舎の寛容さを唱うだろう。それを真に受ける方がわるいのかもしれないが、実情は歪でシビアだ。「骨を埋める覚悟がないなら来ないで欲しい」「移住者が数を増やし意見することになればおもしろくない」と本音を聞かされることもある。まだ日が浅く、そういった一端に触れてもいないであろう人たちが、とりあえずの職として移住関連に就き、新たな移住者を呼び込む。あっても三年限りの俄か雇用。その先はない。もはや、運よく得られた自らの安定職を譲る以外、彼らに当てがってやれる仕事もないであろうのに。それぞれに事情があり、虚構と知りつつ演じているとしても、あまりに度が過ぎてやしないか。

ほとんどの移住者にとって、骨を埋める覚悟は、自身に問うたことも思ってもみなかったことではないだろうか。私も当初は戸惑い、農家で修行していた6年間、答えは出なかった。それでも先ず根を降ろさ なければ始まらないと独立し、土地を借り、ゴミを片付け、鍬を入れ土を作り、そして今後もここで暮らしていけるよう、家の改修にお金をかけ、集落に住む一人として責任を負い、至らないことや失敗も含めて信頼関係を築いていく、家族や友人に助けられ、そういったひとつひとつに全力を注いできたところ、他所に理想を求める迷いはなくなった。ひとつひとつ積み重ねなければ、 体力が衰える一方で必要なお金が増える将来、自力で生きていくことは叶わないからだ。しがらみに絡め取られないよう、誰彼に世話になることを避け、軽々しく恩を買わないよう気をつけてもきた。

あくまで仮初めというのなら、人はそこに当事者意識を持ち得ず、何を成すことも叶わないのではないか。拘らず流れに身をまかせることと、軸の定まらない只の行き当たりばったりとを混同し、都合が悪くなれば他所に移り、自分が傷つかないよう、あるいは、自分に傷がつかないよう誤摩化し てしまうだろう。だから私ははじめに覚悟を問われたのではないだろうか。

誰もが当事者になることを避け、享受することだけを求めれば、田舎は田舎として機能しなくなる。美しいその山里を守るために、自ら汗を流す移住者があまりに少ない。朝に夕にこつこつ草を刈り、炎天の下、雨の中、蓑を背負って土にまみれる年寄りを眼前に、彼らは一体何を見ているのか。

「移住者」

映画「祖谷物語ーおくのひとー」も衝撃的な作品だった。

観る人によって受け取り方は様々かもしれないが、とても厳しい視線でリアルに描かれていると感じた。自分探しに彷徨い土地を転々とする者がわかったようなことを言い地域の今後を憂う虚しさ。ものを知らぬよそ者は愚かで、寡黙な地の人は思慮が深いかというと、必ずしもそんなことはないということ。

先の見えない閉塞感を生んでいるのは何か。どうしようもない混沌、それは田舎に限らず、都市部にも会社組織にも存在するのではないか。

よそ者という言葉は表立って使われるものではなかったが、いつの頃からか移住者という言葉が出回るようになり、私もまた気安く「移住者」と呼ばれ、一括りにされるようになった。ある時、役場で他の移住者と名前を間違えられた。誰かと混同され、自分ならばしないようなことをしたことになっていて困ったのも一度といわずある。初めは些細な言い間違えや勘違いだったのかもしれないが、ただ迷惑という以上に怖くなってきた。その数や所業が許容を超え始めているだろうのに、本当は望んでもいないのに、それでも右に倣って、尚も呼び込もうとする。それは移住者に対する嫌悪感をイタズラに募らせ要らぬ諍いを生むことにならないか、昨今の移民問題のようにならないか不安になる。

よそ者の私でも、その膨らむ数にとまどっている。ハードルが下がったように言われるが、今も昔も、集落は血縁によって作られたごくプライベートなコミュニティーだ。土地も家も、道も、学校さえもその手によって積み上げられてきた。そこに思い至らず、勝手気ままに一端の権利を主張するのは勘違い甚だしいし、のっけから変えようとするのもお門違いだ。その権利を勝ち取るためにここで何代にも渡って骨身を削ってきたというのか。意を唱えられるほど我ごととして責任を負い、今後も担い続けていく覚悟があるというのか。まだ何もしてない、はじまってもいないではないか。(これは自身にも言い聞かせていることだ。)自分を貫きたいのであれば、個として向き合い地道にやり通すべきだ。果たして、骨を埋める覚悟はあるのか。遅かれ早かれ、決断すべき人生の重大な局面に至っては、否応もなく我が身に問うことになる、というのが私のこれまでの実感だが、もはやそんな話も通じないのかもしれない。

子や孫が帰ってくるための限られた安定職をよそ者が取れば、当然、軋轢は生まれる。それは言わずもがなであるはずが、今や移住者にも等しく分配するよう、公然と権利を主張するようになった。棚ぼた的に移住できた故の勘違いだと思うが、移住を促進すれば、そういうことになる。身銭を切らずに使えるコマとして、移住者の人生を安易に利用してきた結果とも言えるだろう。(もちろん、全てがそうではないだろうが)

土地に根ざさないことを土地に縛られない自由とし、客人としてもてなされることに安住して責任を負わず、放浪することに憧れる。

そんな浮草のような価値観がもてはやされる時代。地域社会に通底する規範さえもが軽く見られ混沌とし始めていることに少なからぬ危機感を感じている。人それぞれ、という物言いは時と場合により、相手を立てないばかりか自分を通すための、一方的で破壊的な方便ではないだろうか。そこに骨を埋める覚悟がないのなら、軽々しく受けるべきではない厚意や恩恵があると思うのだ。