life」カテゴリーアーカイブ

2023年 元日

おかげさまで、今年もいく農園として新年を迎えることができました。ご愛顧くださる皆さま、誠にありがとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

裏山から初日の出を望み、とても静かな時を過ごしています。暮れに、いつもお世話になっている地域の方から上等の猪肉と自家製のお餅をいただきました。子や孫のために拵えたものを私達の分まで用意してくださったのだと思います。思い掛けず年越しのご馳走と新年のお雑煮を構えることができ、感謝の気持ちでいっぱいになりました。今年も頼まれた草刈り頑張ります。

今日は何もしなくていい日。したいことをする日。裏山でコーヒーを淹れ、気ままに薪を割り、気ままに川でお茶をして、晩御飯の支度に明るいうちから取り掛かる。畑に牛蒡を掘りに行き、子芋の皮を剥き、金時にんじんの土を落とし、出汁をとり、煮しめを作る。だし巻き卵を焼き、おにぎりを握り、いざお酒をいただく。蒲鉾にわさびと醤油。瑞々しい白菜の芯には味噌。贅沢な時間。

Q太郎もチー坊も幸せそう。

出汁をとっていると、どこからともなく現れるQ太郎。出汁ガラの鰹節、卵を溶いたボウルも綺麗に片付けてくれます。生きることに貪欲なQ太郎は年中くしゃみをして鼻をすぴすぴさせているけど、筋骨逞しく体力は充分。要領がよく狩はうまいけれど、ダメなことを何度ダメと言っても我慢のできないチー坊はというと、ふにゃふにゃになって日向ぼっこ、どこかでご馳走にありついたのか余裕の無関心です。二匹とも膝に乗るのが大好きで、こちらも不思議になるほど人との触れ合いを求めるのです。

三嶺テント泊、そして小屋泊

11月8日はこの秋最後のチャンス、再び三嶺を目指すことにした。一泊二日の予定。

話し合いを重ねた結果、殆どの登山者がしているように朝6時には登山口に着いて早く登り始める、それが必須だろうという結論に至った。となれば、2時半ごろには起きて3時には家を出なければならないし、前夜のうちに弁当を作りパッキングまで済ませておかなければならない。なんと気合のいる休日であろうか。21時には就寝、何とか起きて3時半には出発することができた。

西熊渓谷に着く頃には夜が明け始め、無事光石登山口に到着。6時半、朝露の中登り始める。風は穏やか、空は青い、最高の登山日和。前回引き返したポイントを通過、ついに三嶺を間近に望んだ。弁当がうまい。

最後は急登。鎖場と整備されてはいるものの躓いたり転けたりしたら落ちそうな道が続く。大きな浮石もあり、落石も起こりうる。人が怖がるのを見ているとこちらまで不安になるものだが、平常心であれば注意力も発揮できる。そう、自分に言い聞かす。ただ、荷物が重いとやはりバランスを崩しやすい。泥土のついた靴底で岩の上を歩くと滑る。

14時、何とか無事頂上へ到達した。家を出てから10時間半、コースタイムは7時間半と言うことになる。(地図などに載っている参考タイムは5時間半ほど)

なんと素晴らしい天気であろうか。静かで、見渡す限り山々が連なり、遠くに海が見える。間違いなくここは四国で最も美しいと言われる山であった。コーヒーを淹れ、パウンドケーキで一服。嫁のパウンドケーキはクラシックなレシピで、卵、砂糖、粉、バター、全て同量。シンプルに1パウンドずつという意味でパウンドケーキというらしい。山仕様はそれにチョコやローストした胡桃を加えてパワーアップしてある。

山登りでカロリーを思った以上に消費するのは、重い荷物を背負って長時間歩くからだけではない。はじめての道に迷いつつ地図を見て必死に答えを探したり、思った通りに行かなくて不安になったり、緊張したり、そして、風に当たり続けて冷えたり。頭を使うこと、感情をコントロールすること、変動する天候下で身体を正常に保つこと、一つ一つにかなりのカロリーを要するのだろう。慣れないうちは尚更だ。そんなことに改めて思い至る。

十分休憩したのち、ヒュッテのあるところまで下ってテントを張る。笹原の中に張ってはいけないとなるとごく限られる。道沿いに1カ所空いていた。誰かが張り綱を止めるのに使ったであろう頃合いの石が置いてある。風を避けられるような地形ではないので、風向きが心配。しかし、北西からと思えば北東に変わりまた北西。前回の尾根筋は夜通し北東の風であった。先客のテントが一つ北西向きに張ってあるが、どうしたものか。天気予報を確認する術がなかったので、結局、ヒュッテが建つ向きに倣い、北東の風にあわせて張ることにした。入念にペグダウン。思っていたより刺さりやすかった。日が暮れ始めると一気に冷え込み、まだ暗くなりきってもないうちからフライシートに降った夜露が凍る。

晩御飯はクスクス。手軽な市販のペペロンチーノの素に加えて、挽肉にたっぷりの生姜とカブ菜を醤油と味醂で甘辛く煮詰めた常備菜を和えて食べる。少しでも野菜が有難い。身体を冷やしてしまうと寝れなくなるので、皆既月食についてはほどほどに、タイミングが合えばで寝袋にくるまった。

有難いことに風は穏やかだったものの、気温はさらに下がっていった。冷気が寝袋を通過して身体に降ってくる。カイロをお腹と腰に貼って、カッパも着込んで何とか過ごせるように。嫁もシュラフカバーを新調したが、それでも冷えるようだ。眠れない。ならばと星空を楽しんだ。一旦影となった月が復活し始めるタイミング、天の川も美しかった。足踏みしたり、体操したり、凝った身体をほぐす。同日、白髪山はマイナス五度であったらしい。更に100メートル以上標高のある三嶺は尚下がっていたことだろう。ちなみに、嫁が持っていたキーホルダーのような気温計は0℃からテコでも動こうとしなかった。

少しは寝ただろうか、月明かりの中、朝焼けがはじまった。

二日目は、三嶺から稜線を西へ、大タオ、西熊山、お亀岩で水を汲んで、綱附森方面の稜線伝いに下山する予定であった。お亀岩まで無事に到着。地図で先を確認する。お亀岩から西へ一つ目のピークより稜線を伝って南下し、途中尾根分岐を一つやり過ごしてから谷へ下ってゆく。お亀岩から見える稜線を目指して進んだ。その先にある天狗塚や天狗峠は多分、あれとあれだろう。

向かう先にはツツジの群生があり、迂回する笹原には無秩序に道ができている。ショートカットしようとして道なき道を思い思いに歩き回った結果だろうか、既にどれが正規のルートかわからない。それに、ここに至るまで、登山道の印がわかりにくかったり分岐に看板があったりなかったり、今回もどこが分岐かは分かりにくいだろうという心づもりでいた。地図を確認する。分岐ポイントに名前は書かれていないし、きっと看板もないのだろう。写真下の手前の稜線へ向かった。テープや紐といった印は全く見当たらなかった。ただ、幾重にも踏み固められた道がその尾根へと向かっていた。

小ピークあたりまで来たところで、その切り立った様に緊張が走る。巻道というのだろうか、笹の急斜面を横切る道が続いていた。中々スリリングであるが何とか行けると踏んで歩き出す。が、振り返れば後ろで嫁が動けないでいる。足の運び方を教えて、大丈夫、何ということはないと落ち着かせる。実際に危ない道だった。幅も僅か片足分、笹の根が露出して滑りやすいし、踏み抜けてしまっているところもある。いざという時には笹の株を持って何とかなるのかどうか、必要以上に力んで僅かに滑り、一瞬、谷側の足に力が入らなくなって冷や汗が出る。何とか持ち直し後ろを振り返る。思っていたより嫁は良いペースで付いて来ていた。何とか頑張ってほしい。

一先ずその巻道を渡り終えた。沢山の踏み跡はさらに先へ迷いながら、何かあっても取付けるツツジの間を縫う様に続いている。ここさえ越えれば後はより木々が生い茂って安全な緩斜面へ抜けて南下するはず。嫁を安全なところ(写真下、稜線真ん中の窪んだあたり)に残し、先を見に行く。が、行き着いたのはまさに断崖であった。

岩が露出した崖。鎖もロープも何もない。南下するはずの稜線も全く見えない。ただ、幾重にも彷徨う踏み跡が右往左往しながら谷へ吸い込まれる様に続いている。これはまずいと思った。かつて矢筈山で道に迷いビバークした時の比ではないくらい滑落の危険を感じた。時間は14時近く。引き返すことにした。あの笹の巻道は二度と通りたくない。ツツジの間を縫って何とかお亀岩まで戻った。無事に戻ってこれた鞍部の何と平和な景色であることか。

水を汲んで遅い昼飯をとったら15時、下山は翌日へ持ち越しとなった。来たルートを引き返すしかない。既に行動を終えるべき時間帯であるが、三嶺までは戻っておくことにした。自分達のペースでは、ここからだと1日で下山できるとは思えない。夕日を背に稜線を歩く。暗いのに明るい。夕陽に照らされた笹の海原。何と幻想的で美しい。これをアーベントロートと言うのだろうか。

振り返れば、嫁の息の上がり方がおかしい。そして、再々水を飲む。食欲はないと言うが、シャリバテになってはまずい。羊羹を食べるよう少しキツく言った。とにかく自分ではどうにもならないほどバテてしまっているのだろう。無理もない。二日続きの寝不足の上、緊張につぐ緊張。足も痛むという。何とか気持ちだけでも回復してもらわなければ。この美しい景色は心細い中でこそ瑞々しく際立つものではないか。少し元気を取り戻した嫁も、この景色を忘れないであろうと言ってる。何よりである。

18時前、無事、三嶺に到着。風が強く冷え込む中、テント泊をもう一晩して寝不足を重ねるのは翌日に不安が残る。ヒュッテに避難させてもらうことにした。先客が思っていたより大勢、夕食の最中であった。親世代であろうか、三嶺から剣へ縦走するとのこと。20時には早々に就寝していた。

我々も米を炊き、ようやくあったかい飯にありつく。しかし、嫁の状態が思わしくない。食べ物が喉を通らないという。どうしたものか。普段は私と同じくらい食べることもあるのに、この山行では端から食べる量が少なすぎる。2泊までの食料と燃料には十分余裕あるが、3日目に寝込んで動けないとなってしまって4日目を迎えるにはあまりにも心許ない。どうするか、最悪の場合、嫁をヒュッテに残し明日は自分だけ下山して食料を補充して戻ってくるしかないか。外は風が吹き荒んでいる。前回の冷え切った稜線歩きを思い出した。三嶺はかつてないほど厳しい山であった。

夜中も度々ゴソゴソ動く嫁。寝つけないのだろう。寒いようなので使っていない自分の上着を渡す。少し寝ただろうか、嫁が寝袋から出ようとしている。気分転換に一度外に出るようだ。帰ってきて聞くと、だいぶんマシになったとのこと。やれやれ。少しホッとする。

夜が明けた。嫁はそこそこ回復したようだ。飯も食べられると言う。外はまだ風が吹いている。どんな天気になるのか。休み休みゆっくり歩いて下山するのに8時間はかかるだろうか。

不安だった山頂直下の鎖場は思いのほか順調に降りることができた。帰る道々、自分達が迷い込んだ稜線と地図を何度も照らし合わせる。が、どうしても納得がいかない。どれが天狗塚でどれが天狗峠か、分岐点はどこで、どの稜線を行くべきだったのか。何度見ても頭が混乱して読み解けなかったのだが、嫁の一言により、天狗塚がどれであるかをそもそも間違えていたことに気付かされる。となれば、もう一つ奥の稜線が下山ルートだったことになる。思い込みとは恐ろしい。手前に見えるピークが分岐だと思い込んだことで後の情報がうまく整理されなくなったのだろう。何故か、地図には目指すべきピークのさらに手前にもう一つ別のピークがあるなんて示していない、眼前に見えるピークの存在がないものとされるなど考えられないのだから。抑えるべき幾つかのポイントの一つでも欠けてしまうと全体像が崩れてしまう。思い返せば、あの巻道を行く局面においてでさえ、地図をどう読むか擦り合わせようとするも上手く噛み合わなかった。改めて私が持っていた地図と嫁が持っていた地図を見比べてみる。

余談であるが、いずれもかつて私が買い求めたもの。改めて何年版か見て笑ってしまった。2002年版と2004年版。いつか三嶺に登りたいと思ってから実現するまで20年経ったらしい。20代、30代はとても遊ぶ余裕などなかった。

さて、話を戻す。どう目を凝らしても見えなかった小ピークが嫁のものには明確に描かれていた。いやはや、これが道迷いの原因か。とはいえ、地図のせいにするのは余りに都合がよすぎるし、流石にそれはないだろう。帰宅後に改めてモニター上に拡大して見る。と、私の地図にも辛うじて描かれているではないか。お亀岩を表す点の中でピークを表す円がとじられている。いやはや。しかし、何ともわかりにくい。それに、やはりこの描かれ方では地形的にも実際と照らし合わせるのは難しい。だからあれだけ沢山の足跡が彷徨っていたのだろう。さて、もう一方の分岐点について。嫁のものには「地蔵ノ頭」と明記されているのに、私のものにはない。名前がついていない分岐ならば大した地形的特徴を持っていないのだろうと思っても仕方がないと思うのだが。地図というものが出版年の違いでこうも変わるとは思ってもみなかった。

しかし、いずれにせよ、絶対的な情報である天狗峠と天狗塚がどれなのか明確にあって全体像をイメージできていれば、位置関係や距離感からポイントを見誤ることはなかったであろう。登るつもりがなかったので、それらの情報を事前に確認することもなかった。それに、最新版の地図を用意していなかったのは大失敗であった。

 私が持っていた地図(2002年版 山と高原地図 四国剣山)

 嫁が持っていた地図(2004年版 山と高原地図 石鎚・四国剣山)

行きにとった写真であるが、真ん中にとんがった三角が天狗塚でその右手前が地蔵ノ頭、その右奥が天狗峠であった。地蔵ノ頭から斜め左方向へ続く稜線と並行する稜線が手前に見えるはずだが、そこが迷い込んだところ。分かりにくいが、途中、二股に分かれているように見えるその谷側が断崖となっていた。とにかく無事に帰ってこれてよかった。

いろんな条件が揃ってしまうと、道迷いはどうしても起こるのかもしれない。迷った時は来た道を引き返す。地図読みについてまた一つ勉強になった。百聞は一見に如かずである。色々あったが、兎にも角にも美しい景色を満喫し存分にリフレッシュできた。下山は想定していたより順調に5時間で済み、13時過ぎには光石登山口に着いた。何かと大変だった嫁も、これまでで一番楽しかったし三嶺は最高と言ってる。何よりである。

秋の山行

10月28日、かねてより憧れていた三嶺へ向かった。徳島と高知の間に連なる剣山系の一つで、思い入れを持ったファンが多いことで知られており、「みうね」が正式なようだが、高知では「さんれい」と親しみをもって呼ばれている。

一泊二日の行程。初めての今回は一日目、途中のさおりが原でテント泊して、二日目は様子を見つつ行けるところまで行って引き返す予定だ。昨年大変な目に遭った石鎚の裏参道のことがある。人によっては10時間ほどかけて日帰りするようだが、まあ、自分達には無理だろう。

高知県、旧物部村の最奥、久保の影という集落の先、西熊林道に登山口がある。さおりが原は、20年前の修行時代、研修先の農園へ援農に来られていたご夫婦に連れて来てもらった思い出の場所だ。当初は住み込みで働かせてもらっており、息抜きにとの心遣いであった。5月、静かな沢が流れ入る園地にバイケイソウの群落、立派な栃木。帰りには笹温泉に浸かって夢見心地であった。

我が家から登山口まで約100キロ、3時間弱。前日まで何の用意もできなかったので、朝起きてから、弁当を作り、荷造りを済ませて家を出たのが9時半。登り始めたのが12時半。さおりが原までは印に混乱して迷いやすいらしい。なるほど、どこでも通れそうな開けたところは足跡が道を作っておらずトレースすることができない。枝や幹に巻かれたテープもラインを描かず、こっちからもあっちからも行けるというように散在しており、分岐のポイントがわかりにくい。地図とコンパスを頼りに地形を確認しながら北の少し東寄りの方角を登ってゆく。

昼前に道中でパンを食べていたので、遅めの弁当タイムをとった。山仕様の卵焼きは、だし巻きではなく砂糖と薄口醤油で。太白ごま油を贅沢に使い、2人前を卵6個で作る。今回は海苔弁に。忍ばせた昆布と卵焼きとの相性が抜群であった。他は、芹と鰹節をソーセージを焼いた残り油でさっと火を通して醤油を和えたもの。

尾根に出た。どうやらさおりが原への分岐を過ぎてしまったようだ。尾根伝いに北東へ進路を変える。そのまま進むことにした。眼前、北に西熊山らしき頂と大タオらしき見事な笹原の稜線が見えた。あれがカンカケ谷でこれがフスベヨリ谷だろう。そして私たちの立つ尾根。いずれ本来予定していた道と合流するはずだ。

今思えば、散在しているように見えた印はつまり、九十九折りを細かすぎるくらいに案内していたのかもしれない。それで肝心の分岐も同様のそれと思い込んでしまったらしい。

15時が過ぎ、16時が過ぎ、まだ合流すべき尾根が見えない。気温が下がってきた。そろそろ、さおりが原は諦めるべきか、どこでテントを張るか探しながら進む。16時半、いよいよ今日はここまで。強さを増してきた風を避けられる場所を探す。窪地は平らでも湿気ているし、鹿のフンもそこここにある。そして枯れた立ち木の下を避けるとなると、なかなか見当たらない。風上でなければいいか。気温はぐんぐん下がってきた。山の様相は急激に変わるから恐ろしい。

ビバークではないが、当初の予定を外れて一泊することに。強い風が夜通し続いたが、幸いテントを張ったところは穏やかだった。ここは熊が棲む山域らしい。鹿の鳴き声も時折聞こえてくる。猪も間違いなくいるだろう。テント周りに細引きで境界をこしらえ、そこに熊鈴をぶら下げて呼子にする。効果があるかないかわからないけど、、、弱いなぁ、自分。かつての山に入る人ならば当然、我が身を守る術を持っていたであろうに。身についてないことのなんと深刻で痛恨なことか。40歳も過ぎて慌てて取り戻そうとしている。

熊の話を持ち出すと嫁が思った以上に嫌がった。「スマン、スマン。」「スマンでは、済まん!」

一晩中強風が尾根向こうで吹き荒び、嫁はほとんど寝られなかった様子。私は気づけは2時間とか1時間とか経っていたのが幸いだった。3シーズン用の寝袋だが防水透湿性のあるカバーを新調したことで暖かく寝ることができた。嫁は冬仕様のものだがそれだけでは寒かったようだ。

夜が明けてコーヒーを淹れ、お手製のパウンドケーキでひと心地。

「コーヒー入ったよー」嫁を呼ぼうとしたところ、転かして半減させてしまった。貴重な水、貴重な燃料、、、疲れてるな、自分。呆れて文句を言うでもなく、美味しいと慰めてくれた嫁に感謝。

テントを撤収し、パッキングしていざ出発。8時。三嶺までは無理でもカヤハゲの分岐を確認するところまでは行きたい。じきに陽が出るだろうと、防寒着をザックに仕舞い込み薄手の行動着になったものの、風が一向にやまない。テントを張った南側とは違い、進む尾根の北側は風がもろに当たる。これはキツいと思う間にも体温がどんどん奪われてゆく。嫁がもう引き返そうと言う。尚も先を進もうとする私に、この先風が止む保証はないのだからと更に訴える。ひとまずザックを降ろし、とにかく仕舞い込んだ防寒着を着直すことに。ニット帽を被りさらにフードで覆う。これでなんとかなりそうだが、その間、少し余裕を取り戻すことができた。テントの撤収作業で待たせていた間、私と嫁の保持している温みには幾分の差がすでに生まれていたことに思い至る。気づけば私自身だいぶん冷静な思考をを失うほど冷えは緊迫していた。吹き付ける風の強さはとてつもなかった。以前友人が、どこでそう思ったのか知らないけれど、手綱を握っているのは嫁、と言っていたのを思い出して苦笑いする。言い得て妙である。

初の三嶺は遠く叶わなかったが、かつてないほど広く美しい豊かな森を十分満喫することができた。

また来ると、嫁の背中が言ってる。

来た道を戻り、さおりが原への分岐を確認。20年ぶりの園は鹿避けの防護ネットが至る所に施され物々しい様相となっていた。倒木、立ち枯れ。よほどの嵐だったのか、砂礫が剥き出しとなっているところがそこ此処に。美しくも荒々しいかけがえのない山。コーヒーを淹れ直した。

また転かすなよー

再び嶺北の山へ

山登りについては、嫁の方が俄然モチベーションが高い。私は運転が好きではなく、叶うものなら自転車で登山口まで来たいくらい。なので、小一時間で行ける近場にお気にいりの山が増えたのは嬉しい。石鎚山にもまた行きたいし、三嶺にも行きたいけれど3時間近くかかってしまうのが億劫だ。

芽吹き始めた山の上。この日は風が強くて体温調節に何度も着たり脱いだりを繰り返した。

チョコレートにクランベリーとレーズン、くるみとひまわりの種がたっぷり入ったパウンドケーキはハイカロリーな山仕様。弁当は、かつて少年野球をしていた頃のチーム飯。お母さん達が毎度の献立に悩まないように考えられた、卵焼きとソーセージがあればオッケーというのを踏襲している。今回はそれにプラス、三つ葉とおジャコの炒め物。

 

 

メンテナンスの一日

出来ることなら週一でも休みをとって自転車とプール三昧の1日を過ごすしたい。根がストイックに出来ていないわたしはとどのつまり、そうでもしないと日々のストレッチすら億劫になってしまう。

ちなみに、ストイックという言葉を辞書で引いてみると、「禁欲的で感情に動かされず、苦楽を超越する様子(した人)」とある。だから私はストイックと言われることもあるけれど、とんでもない。世間ではそうでなくとも、毎朝決まった時間に起きて日々を規則的におくることが模範とされがちだ。しかし、現実的に感情の波はあるものだし、いろんな物事に対して疑問を持ったり悩んだり、考える質であれば余計にそうあることは難しい。波があるのは困りものだが、その振幅をうまいこと使えばそれなりになんとかなるのではないか。やるべき仕事からは逃げられない。やりたいことでリズムを作るのだ。

県道16号で峠を越えて高知市内まで往復4時間半ほど、間に小一時間泳いで6時間そこそこの行程をバロメーターとしている。これが日常的に難なくこなせるようでなければ、草を刈って運んで裁断しての土づくりや山仕事を続けることは出来ない。つまり、シビアで差し迫った問題なのだ。

自分にとっては結構キツい峠道なのに、存外多くの人がサイクリングを楽しんでいる。乗る人からすれば、なんということはない峠なのだろうか。

 

嶺北の山々

本格的な畑シーズンを迎える前に、山へ行くことにした。代掻き前の綺麗な汗見川を上へ上へと県境の峠まで。1時間ほどで登山口に着く。

花も新緑もまだだったが、静かで久しぶりに心が休まった。昼過ぎから登り始めたので、時間的に無理をせず、大森山で引き返すことに。前日まで丸太を運んだり割ったりしていたこともあって、心地よい疲労感に充分満足できた。山々を見渡す開放感、その中で弁当を食べる贅沢なひと時。長閑なところですねと言われるような中山間地で暮らしているのに、更に奥へまた登る。ただ歩くことに専念できるということ、ただ景色を楽しめることって、仕事や責任に追われる日常では中々叶わないものだ。

自分たちの暮らしがこの奥深き山々の中にある。頂から見渡せば、虫にたかられ汗にまみれる毎日をまた頑張ろうと思える。残した木々がいよいよ立派に映え、木漏れ日が射すようになるのは嬉しい。かけがえなき花鳥風月。

同じ集落の還暦を過ぎた農家さんが息子に跡を譲り、花のなる木を植えている。幸せのかたち。子を授からなかった私たちは、この地において一代で終いをつけることになる。けれど、それもまた人生ということで、私たちは私たちなりに楽しみを見出していきたいと思っている。

装備はいつもの一泊分。弁当作って非常食は手軽なクスクス。

道中、山の至る所に植林の大規模な皆伐が進んでいた。大胆過ぎやしないだろうかと心配になる。

春になり、雨になり、動き出す

寒く乾燥した季節も終わり、風が温み、雨が降っている。

この冬は町内でも火事が多かった。あまりに乾燥していると、草刈り機やチェーンソーの歯が石か何かに当たって出た火花でも起こるらしく、重機にハンマーナイフモアをつけて刈っていた現場の火事はそれだったようだ。力技な分、余計に気づかないのだろう。野焼きによるのものは相変わらず毎年のように起こる。聞くところによると、同じ人が起こしているようだ。消防団に入っている知人が呆れていた。あれから、火事には敏感になった。日暮れ間近、積んでおいた竹を短く切っていると火花が見えてひやっとした。煙は出ていないか、一度帰ってからジョロ片手に再度確認に行った。

5年以上前に伐って積み上げておいた竹と杉の丸太が崩れ落ちていく夢を見た。雨に濡れ、いよいよ朽ちゆく様がありありと見えたのだ。まさかとは思うが、急斜面なので転げ落ちて事故を起こすかもしれない。谷を一直線に降ってゆくコールゲートは鬼門だ。

矢も盾もたまらず、辺りが白み始めると現場に行った。流石に夢に見たほど切迫した状態ではないようにも見えるけれど、支えにしていた切り株も頼りなく傾き、もはや予断は許されない。そう思うべきだろう。春になれば嵐も来る、虫も出てきていろんな事が一気に動き出す。

種を蒔かねばならないのに、いろんな片付けに追われる。先の先のためにあれもこれもがある。春は忙しい。

殆どを一株そのままの長さで3メートルほどの高さまで積んでおいたもの。手に追えなくなる前になんとかしなければ。

(2017年3月 伐った当初の様子)

白ネギの仕込みもしなければならないが、今日も午後から雨の予報。杉の丸太に取り掛かることにした。

上に積んだ竹を避けていくと丸太が顕になってくる。自分で伐った後だからできる作業。人のやった後なら、何がどうなっているかわからないので頼まれてもやりたくない作業だ。できる限り玉切りして搬出した後、ロープで確保しておいた。ようやく安心して寝られる。

春の道作りが無事おわりました

伐ったのは山側の杉3本。だいぶん明るくなってきた。

(今年1月13日時点の状態)

前日は雨だったが、当日20日は晴れ、少々風があったものの支障をきたすほどではなく、地域の協力もあって、片付けまで無事終えることができた。

崖の上と言ってもいいところに生えており、いかに安定して寝かせられるか、中途半端では終われない、本当に難しいケースだった。加えて、通信ケーブルに枝がからんでいたこと。2株が密接して生え、片方が斜め後ろ谷側へ傾いている起こし木であったこと。滑車を取り付ける立木が限られ、牽引方向がベストではなかったこと。それぞれが伐根直径60センチ前後の大径木であったこと。11月に一度、牽引具をセッティングしてラインを確かめ具体的にイメージしたところ、いかに問題を孕んでいるか解って仕切り直すことに。普段の畑仕事にはない種類のリスク。誰に頼まれたわけでもないが、正直なところ、もう勘弁してほしいと思ったものだ。搬出も危険を伴い、重労働になる。

万全を期すため、事前に枝を打ち、当日は再度登ってワイヤーを枝の上の充分高いところに取り付けて牽引し、手前の一本はアンカーにする木がないので楔だけで倒すことになった。スケジュール的に半日に3本は難しかったが、入念に対策を練り手持ちの手段を増やしていたことで、落ち着いて進めることができた。

次の冬までこのまま置いておく。全てを片付けるまで、まだまだ安心はできないが、兎にも角にも、無事に倒れ、安定した状態で寝てくれたことは大きい。衆目の集まる中、誰から見ても安心感があり、作業が淡々と進められ無茶をしていないと見てとれるかどうか、今後もここで山仕事をさせてもらえるかどうかが掛かっていた。

手入れすべき山が集落の中にあり、急斜面にあるということがいかに困難であるか、知らぬままに借りてしまったことを、今更ながら、なんとも危うい若さであったかと思う。そこが植林になっていることそのものが異常ということさえ知らなかった。

周りの植生が豊かになれば、畑も良くなる。それは逆に言えば、周りの手入れをしなければ畑はよくならないということだ。借りた農地は東西を深い藪に囲まれており、南斜面にあっても日照が足りないということを後から知った。実が満足に着かなかったのだ。薮は獣の棲家になるばかりでなく、虫の温床にもなるし、湿気を溜めてしまう。気の流れが悪いというような観念的なことを持ち出すまでもなく、そこで農業を生業とするのは厳しい。

石鎚の麓で発酵茶を作ってきたご夫婦の言葉が印象的だった。村を去る人々が山を植林に変えてしまってから次第にうまく発酵しなくなったと語っていた。自分の手の届く範囲でもいいから、この暗澹たる混沌を払拭できるものなら払拭したい。少しでも、この先きっと良くなると思えること、将来を楽しみにできることが生きるためには必要だ。にしても、一つ一つが実に重い。ひとりの人力で大径木を片付けられるのは40代までだろうか。時間が限られていることを嫌でも思い知らされる。美しいと思えるところで暮らしたい。

枝打ち〜その2〜

カーブミラー脇の弱っている杉については手前へ、道に沿って倒す予定にしており、ガードレールに当たりそうな枝を打っておく。枯れた太い枝そのままではいつ何時落ちるかわからないので、いずれにせよ暫時片付けておかなければならない。藪の手入れを一旦始めたならば状況は変わり、次から次へと責任が生まれる。

今回は車道に打った枝が落ちないようロープで確保しつつの作業となる。他の仕事の傍ら、これまで2日に分けて少しずつ切り上げてきた。木が健全でないため、皮が剥がれかけていたり樹脂が染み出していたり、枯れ落ちた枝の痕の出っ張りも厄介で、胴綱をしゃくり上げていく際に死角となる裏側が引っ掛かって思うようにいかない。命綱を頼りに胴綱のテンションを一旦緩めて引っ掛かりをとるのだが、その作業は樹幹と自分との角度が浅くなって足元が不安になり、余計にエネルギーを食われる。

3日目は写真下の地点から六本ほど打ち、自分の身体もうひとつ分上まで登ることになったが、そこまでになると樹幹はかなり細く形もより歪に。爪がしっかり食い込んでいるかどうか、高度が上がれば上がるほど必要以上に緊張し神経をすり減らしてしまう。新たな作業が加わって樹上にいる時間が長くなり、集中力を維持するのが大変だ。アンカーとする上方の手の届かない枝へロープを掛けるのに手間取って、自分の確保が疎かになる。一瞬でも樹上にいることを忘れてしまいそうになったことに慄き、足元の爪と胴綱の状態を確認する。手が届くところまで一旦登って掛ければいいのだが、そのためには、落としていない枝を跨ぐために胴綱を一旦外して掛け替えなければならない。今の装備でそれは出来ない。やるほどに改善点が明らかになってくる。信頼できるハーネスと命綱、胴綱を掛け替えるシステム。不測の事態を念頭に入れるなら下降機も予備のロープも必要だ。ロープの色を変えることも大事だろう。それを賄えるかというとなかなかであるが。

打つ枝も、物によっては太く片手で保持するにも大変な重さになるので、それを樹上で扱うのもまた神経を使う。ロープを手繰り寄せる際にぶら下がっている枝が足元にあたる。そんなことひとつ一つにすり減らされるのだ。

とにかく忘れないうちに少しずつ経験を積み、シンプルな道具で基礎を学ぶ。そしてシーズンの終わりを良いイメージで締めくくりたい。

枝打ち

今シーズンの山仕事もいよいよ大詰め。春の道作りで伐る支障木は、枝が通信ケーブルにかかっているため、事前に枝打ちをする。農業にも通じることだが、山においても、根拠のない自信や楽観、そして、自負は危険だと戒めている。

言うまでもなく枝打ちは樹上に登って行うわけで、おいそれとできるものではない。いずれはと思うものの、やれるとも、やろうとも思えず随分経った。知っている事といえば、特殊な爪を靴に装着し、胴綱を使って登るということぐらい。一冊の本に一通りの方法や必要な道具がのっていればとっつき易いのだが、そういった種類のことでないのはわかる。とにかく、よく使われているらしいメーカーのものを取り寄せた。説明書きはないに等しく、特殊用具のため熟練者に適切な指導を受けるようにとのこと。そして、別途、墜落防止器具をつけるようにと書かれていた。しかし、製品ラインナップをみてもどれが樹上作業に適合するのかわからなかった。まあ、そういうものだろう。敷居は高くあって然るべきだ。

どのように使われているのか、林業の現場ではこれまで胴綱を安全帯として墜落防止器具といったものはなかったようだ。そもそもが特殊な仕事、無理と思うなら就いてはいけないし命の補償を誰かに求めてもはじまらないのだろう。山の仕事はきっとそんな事ばかりだ。とはいえ、根が怖がりにできている私としては、手間取ってでも安全を確保したいし、胴綱と爪のついた履物だけではあまりにも心もとない。安心を求めれば求めるほど海外の高価なクライミングツールがあれもこれも必要になりそうだ。樹種によってはいずれそういった道具も必要になると思うが、それはおいおい。以前、椰子の木に登る少年の映像を見たことがあったが、彼は裸足で胴綱一本で昇り降りしてたっけ。

墜落防止器具にかわる命綱を自分なりに用意する。ロープワークの本を参考に、ふたつの輪を作り両脚をそれぞれに通して上体に結び付け、家の梁から吊り下がってみた。が、自重でどんどん締め上げられ、痛たたと思わず声を上げてしまう。と、振り返れば、嫁が爆笑して泣きそうになっているではないか。いやいや、こちらは真剣なのだ。試行錯誤を繰り返し、実際に立木で試して、それなりに命を守ることはできそうになった。

思っていた以上に、靴に装着する爪の扱いが難しい。木に対する角度が甘いとグラグラ不安定になり、ともすれば食い込みが外れて体を支えられなくなる。胴綱はその爪の当たる角度を保つためのものであって、落下を防いでくれるものではない。この登り方は体重のほとんどを爪に託しているから、そこに一定の信頼を置けなければとてもではないが樹上高く登ることはできないし、いわんや作業をやである。胴綱を取り付けるベルトのズリ上がりも気になった。一日目は枝を一本切ることさえ出来なかった。不安がとてつもなく残った。命綱の改良と、なぜ爪が安定しなかったのかを考え、安定させるためのポイントを整理する。いたずらに下手を繰り返せば足首も膝も痛めてしまいそうだ。

翌日は珍しく頭痛が出た。寝込むほどではないが仕事にならない。樹上の空っ風で冷えたこともあったが、相当力んで体力を消耗していたようだし、緊張がとれずうまく寝られなかったからだろう。

日を改め、体力と集中力と相談して少しずつ進める。踏み外すことはほとんどなくなったし、胴ベルトのずり上がりもさほどではなくなり、二日目は枝を一本落とすことができた。三日目は二本以上落とすことができた。適切なところに適切な角度で一歩一歩確かめ、胴綱を操り、命綱をその都度、確保する。むやみに緊張するのではなく、抑えるべきポイントに集中し、作業手順と型を構築していく。踏ん張る足元は大丈夫かベクトルは合っているか、作業しつつ足裏の意識を忘れないようにする。それでも時折不安定になって緊張で気が遠くなりそうになる。樹表の歪なところは爪の当たりが悪くなるのだ。枝打ちのあと、特に枝が密集していたところは足の踏み場がないほどで、そういったことを樹上で気付く。気持ちを落ち着かせるのに一苦労しながら迂回ルートを探す。その後はルート取りをより入念にイメージするようになった。数日かけてなんとか問題となる枝を全部落とした。

キャパシティーを超えて頭がショートするような感じ、気が遠くなる。緊張から解放されたいという誘惑がふとよぎる。気がつけば、どこかに意識が飛びそうになったり、何か他のことを考えて集中が切れそうになったり、心と身体がばらばらに逃避行動をはじめる。思いとどまるにもエネルギーがいることを改めて知った。

思い出すのは小学生の頃、確か10歳ぐらいの出来事だ。学校から帰って家がたまの留守にもかかわらず鍵を忘れていたことが何度かあり、はじめこそ家族が帰るのを待っていたものの、怖いもの知らずで身軽さを自負していたわたしは、2階の窓が空いていることを幸い、雨樋を伝って庇から窓に取り付き、家に入ったことが何度かあった。当時の我が家は山を切り開いて造られた新興住宅地にあり、斜面に擁壁を立ち上げたその上に建っていた。下はコンクリートにタイル張りの階段だったのだから、危険極まりないことをしていたわけだ。そして、ある日もまた味を占めて取りついたところ、いつもの窓に敷布団がかかってあった。それが何を意味するのか察知できなかったわたしは、取り付いてはじめて、力が入らないことに気がついた。

自分の頭より高いところに取り付いているわけだから、足は既に庇から離れている。いつもなら上半身を使って肘をかけるところまで持っていき、あとは足をかけてよじ登るだが、そのはじめのところが滑って思うようにいかない。ともすればずれ落ちそうになる。駄目かと一瞬よぎった。庇に降りようとすれば、後のない足場と壁との隙間を布団が邪魔をして勢いそのまま落ちてしまうのは明らかだ。シーツを掴んであえなく落ちてしまうのを想像した。しかし、若さゆえの瑞々しい執着というのか、諦めずありったけの力を出して登ることができた。

幼少からのいろんな無茶は無意味ではなかった。とはいえ、一つまた一つ、限りある幸運を食い潰してきたようにも思う。歳を重ねヨレた感のある今、あの頑張りを、運よく、当たり前の如く、また発揮できるだろうかと、もはや疑ってしまうのである。楽観も自負もできない。あらかじめ作業負荷に対するリミット(制限時間)を設定しておく必要がある。

登山における事故というのはベテランであるか初心者であるかにかかわらず平等に起こると言われているらしい。山仕事においても、ケースはひとつひとつ異なるし、リスクの高い現場では精度が求められ毎度改めて怖いと感じる。実際のところ絶対に大丈夫ということはあり得ない。つまり、難しい木がその時うまく倒れたとしても、伐れるようになったということではない。経験を積み、次なる課題に直面した時、それを伐ろうと思えるかどうかでしかないのだ。

こういった仕事は怖がりで慎重過ぎるくらいが丁度いいのだろう。不安要素をやる前からあれもこれもと並べ立てるほどの怖がりであり、それらを漠然としたままには進めないほど慎重であるということだ。その時点で気付かない危険については、至らなかった自分の力量ゆえ仕方がない。とはいえ、仕方がないでは済まないから、年数をかけて経験を積み、抜けているところがないか考え続ける。そして、甘さや余計な危険が生じないよう、一人でやる。

危険なことを何故自ら進んでするのか。一言にはまとまらないが、見失いたくないものがそこにあるのは確かだ。単なる度胸試しではないし、蛮勇は望むべくもない。通過儀礼として、非常な試練を自らに課すというのとも違う。わかったふうなことを言いたくはないから、謙虚にならざるを得ない状況に身を置く、自分にとってはそんなことの一つなのだ。だから、今回頑張ったから十分ではなく、身体が許す限り続けなければならないのであるが、とまれ、根が気分屋でストイックに出来ていない私としては今シーズンはもういっぱいだ。気を取られてこの冬はほとんど自転車に乗れず、また膝や腰に不安が出てきた。ほとほと、コンスタントに続けることが苦手な我が身であることよと、ついぼやきが出てしまうのであった。