今日は氏神様のお祭りでした。
初参りや七五三のお参りもあり、にぎやかでした。
他所から来た私たち夫婦を氏子に加えてくださることに感謝。
こちらは同世代の夫婦、たっちゃん、あゆちゃんが切り盛りするお店。
修行を経て来た職人さんが作るお料理で、今日も丁寧にとられた出汁が心に身体に染み渡ります。メインはもちろん美味しいのですが、何より楽しみなのはこちらの定番、旬の野菜に豆腐やお餅の揚げたてを楽しめる「揚げ出汁」と、はらりとほぐれ濃厚で口溶けの良い「バッテラ」、これは口に入れた途端、恍惚としてしまう美味しさです。
添えてくれる小鉢のおひたしや酢の物も嬉しい。こうして、食べる側の身体を気遣ってくれている事が何よりのご馳走ですね。背筋が自然と伸び、毎度、唸りながら食べてしまいます。
揚げ出汁と秋刀魚のバッテラ(炙り)
そして、もう一つの楽しみが、図書。もちろん、店内でも読めますが、販売されているので、気に入ったものをお持ち帰りできます。大事に選ばれた本ばかりです。
そして、terzo tempo へ。
こちらは佐野くんとナナちゃんのお店。街のカフェです。納品に来るときは大抵、夕暮れ時になるのですが、その、夕焼け空の下、人が集まる景色がなんともいい感じなんです。
馴染みのお客さまや、丁度いくピクをプレゼントにと寄って下さったお客さまにもお会いすることができました。
ありがとうございました。
生姜の収穫が始まる前に、ナスや万願寺とうがらし、コリンキーの仕込みをし、合間に薪づくりを進めています。木を伐り、玉切りし、斧や矢と槌で割る仕事は、まさに骨の折れる仕事ですが、畑仕事が一段落した今時期、これでお風呂と暖がとれると思うと楽しみな仕事でもあります。
まわりでは稲刈りが終わり、虫の鳴き声もやみ、めっきり静かになりました。そして、川がきれいになってきました。大阪出身の私たちにとっては奇跡に見えるこの透明感。大事にしていきたいですね。
事情によりここしばらく休業していた大田口カフェが再開されたので、早速行ってきました。家族総出で迎えてくれるこのお店では子供たちと触れ合う時間も楽しみの一つです。今日は「みちつじ」の、けるっちくんもいて嬉しかったです。
新作「碁石茶とサツマイモのモンブランタルト」には銀不老という、これまた大豊町特産の豆がしっとり甘く仕込まれています。ここでしか食べられないケーキですね。
義父の喜寿を記念したコンサートにいってきました。
現役のテノール歌手である義父の歌を聴きに行くのは2回目です。
なんとも心地の良い歌声、堂々としていて、これをまさに円熟期にあるというのでしょうか。お弟子さんが言うように、今も尚精進し、その変化を体現している姿は、やはりかっこいいと思いますし、音楽についてあまり知らない私が聴いても瑞々しい現役のプロの歌だと感じました。
帰路につきながらふと頭に浮かんだのは、自業自得という言葉でした。80歳近くになっても現役で、弟子に慕われる義父の姿をみていると、その言葉は、将来の自分に対して責任を持つという意味で、今の自分に言い聞かせることでこそ活きる言葉だと思いました。
40年後の自分が現役の農家として畑に立っているように、そして、ピクルス作りにおいても精進し続けている自分であるよう、今やるべきことはそこから見えてくるように思います。
実家にも寄ってきました。野菜炒めを作る父と助手をする母。この春65歳で定年を迎え、家では昼ごはんの担当になっているようです。両親とも健康でいてくれて何よりの幸せです。
2015年、10月1日の農業共済新聞に掲載して頂きました。
いつもお世話になっている、まなべ商店さん、記者さん、丁寧な記事をありがとうございました。
この度の取材で、あらためて農業とピクルス作りにどのような展望をもっているか質問されました。
農業についてはこれまで、なかなか展望を見いだせずにいました。立松和平さんの[遠雷」「春雷」という本を読んで頂くと、イメージして頂きやすいと思うのですが、作物を栽培するという事、農業を経営するという事が途方もなく感じられたからです。
作物は作るものではなく育てるものだという考えに落ち着き、とにかく畑でそのものを見続け、分からないことの答えも人に訊くのではなく、畑の中で見つけるようになった頃から、少しずつ展望が見えてきました。作物の生育をコントロールし、量産しようとすると技術は複雑難解になりますが、その発想を捨てれば、やるべきことは当たり前の積み重ねしかありません。
最近強く思うのは、種を蒔いた100%が収穫を迎えることはない、完璧はあり得ないということです。
今作の人参も蒔いた直後に嵐に叩かれ獣に踏みつけられ、今では半分くらいになってしまいました。そういった不測の事態はなにがしか起こるもので、だからこそ、人参の一本が健やかに成長し売り物になるまで育つことだけで、既に奇跡だと思うのです。しかし同時に、その都度諦めなければ全て消えることはありません。限られた収穫を最大限に活かす。加工することで、経営上クリアーすべき収量を減らせたことは救いになっています。
北海道の恩師から鮭が届きました。
19歳の時に牧場アルバイトでお世話になって以来、大学卒業後の進路に迷っているときも、農業に展望を見いだせないときも、そのほかにも数えられないくらいお世話になっています。
先日、電話で聞いた話。
北海道でも法人化が進んでいて、近隣の農家が出資し合って規模を拡大し、効率化を図るわけですが、なかなかうまく行ってはいないようです。
農地を拡大すれば身入りが増えるということではなく、規模に見合った機械の大型化や更なる設備投資が必要になり、新たな負債を抱える。出資者同士の関係がうまくいかず辞める人も多いのだけど、その人の土地は既に法人名義になっているので、帰って耕す土地もなく農家に戻ることはできない。離農し、どこか雇ってもらえる口を探すしかない。そんな悲愴な話を聞きました。
「農学栄えて農業滅ぶ」と言われてきたように、これから農業に携わろうという人にも、農家をめざすのではなく、斡旋する側にまわる人の方が多いようです。いっとき増えた新規就農希望者はめっきり少なくなりました。担い手の高齢化は明らかに進んでいて、これまで草を刈っていた人もそれが無理になり、除草剤を使うようになっている現実があります。なので、うわべのサポートではなく、その人自身が主体となり、責任とリスクを負って農業に従事する、少なくともそれを前提として欲しいと思います。
移住や地域おこしという言葉が頻繁に使われるようになった頃から、田舎に移り住むその意味合いが違ってきたかもしれません。そもそも、私個人の考え方では、各々がそこで暮らすために仕事をする、無ければ作り、暮らしを立てていくことで、結果的に地域は興るものだと考えています。地域おこしという新しい仕事を、地域経済がまわるよう稼げる仕組みを作る仕事と、敢えて定義付けるなら、その仕組みを作り商品提案をして終わりではなく、提案した人自身が主体となって続けなければ、その仕事は生き残れないはずです。
農家の研修生としてこの土地に来た当初、「骨を埋める覚悟はあるか」と地元の農家に訊かれたものです。街暮らしにはない衝撃的な言葉でしたが、今となっては、それが不思議なほど納得できます。農業も農村で暮らすことも、土地に根を下ろさなければ、いつまでたっても自分の事として真摯に向き合うことはできないと実感してきたからです。土地の手入れを続けることも、そこでずっと暮らしたいといつわりなく思えた時にはじめて、身が入りました。地域の役を受けるも断るも、それ相応の理由がなければできることではありません。私は消防団を3年で辞めましたが、それは辞めなければ農業を続けられなかったからです。実際の消火活動ではなく、練習や大会に参加する為に捨てたたくさんの野菜、それを仕方がないと笑う兼業農家のように自分を納得させることはできませんでした。農業を生業とし、ここでずっと暮らしたいと本当に思えていたからこそ、地域からどういう処遇を受けるかとても不安でしたが、言う決心がつきました。
価値観は人それぞれですが、各々主体となる、そこは共有したいものです。