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鬼の棲む山と云われた稲叢山へ

作付けに追われる中そろそろ息抜きもしないと、というわけで春の息吹を感じる山へ。平家の落人伝説が残る稲叢山。かつては人を寄せ付けない深山だったところが、ダムの建設によって身近に。学生時分に自転車できたことも昨日のようです。が、それももう20年前のこと。

(2000年版ツーリングマップル)

住んでいた高知市朝倉から鏡村を越えて瀬戸の集落へ。帰りはどの道を通ったのか忘れてしまったほど、何気ない日常のことであまり遠いとも思ってなかったのが今では信じられない。昨日、地図を広げたとき、老眼のはじまったことを知る。こないだ知らない男の子に満面の笑みでおじちゃんと呼び掛けられたけれど、もはや否定する余地のない程に自分はおじちゃんになったのである。

思わず深呼吸したくなるような水辺。

どこまでも続く山々の連なり。個人がそこで暮らそうと思えば今も依然として深く険しい。

無事に下山できました。

明けましておめでとうございます

 

(工石山、北の頂から)

お陰さまで今年も年を越せました。

久しぶりに会いたいなと思っても会えない自粛する日々。マイナス7度それ以下の寒波が来るというので急いで里芋に刈り草をたっぷりかぶせ、薪や焚き付けを補充し水道の元を整えたものの、穏やかに晴れた正月三ヶ日でした。Q太郎もちぃ坊も方々でご馳走にありついたようで余裕があります。

当分、天気は安定する模様。嫁の方は手術の痕が時々痛むものの、だいぶん動かせるようになり、いよいよザックを担いでみようということになりました。市民の憩いの場である工石山には親子連れも。いいですよね、そういう正月の過ごし方。

今回の装備もいつものように、たとえ日帰りでも一泊分を用意しました。35リットルのザックにテント一式と寝袋。飯盒とバーナー一式。3食分の食糧はおにぎり、棒ラーメン、缶詰、生米、その他携帯食。水は1.5リットル。寝袋は相変わらずのペラペラなので、服を着込んで対応することに。

トレッキングポール は膝を痛めないためには必須だと思うようになりました。これからたくさん登りたいし、縦走やもっと重い装備になった時にはいずれにしても欠かせない。使い始めるとその理にかなっていることに感動します。四つ足動物になった感じ。足の歩みにどう連動させるか探っていくと自転車にも通じているところがあって面白い。上りも下りも自然と爪先荷重になるので膝がブレない。疲れにくい太腿の後ろ側と臀部を意識して使うことさえなくなった。歩くという概念が変わり、歩ける距離が飛躍的に伸びる予感がします。

山頂で食べるごはんはやっぱり美味しい。しかしおにぎりが冷たくて食べると身体が中から冷えてきて、たまらずお酒が欲しくなる。実は御神酒用にワンカップのさらに小さいものを忍ばせておいたのです。イワシの缶詰を開けてちびっとやる。これもまた山の楽しみ。5年後になるか10年後になるか、いつか雪山に登れるようになりたいなぁ。

南の頂からは土佐湾と広い太平洋、そして馴れ親しんだ高知の街が望めます。ここで淹れるコーヒーは格別。かつては羨ましいとさえ思っていなかったこういった一つ一つが、こんなにも楽しくありがたいと感じるようになったこと。はまる人がいるわけだと思う。

 

日常に戻ります

術後の病理検査の結果、嫁は浸潤性乳管癌という診断になりました。ステージは1。浸潤性とはつまり転移の可能性があるということ。但し、浸潤は摘出した腫瘍内に収まっており、周囲1センチの正常な組織にガン細胞は検出されなかったということでした。今後の治療としては再発を抑えるべく、週5日×5週(つまり25回)の放射線照射と5年間のホルモン療法(女性ホルモンを抑える薬の服用)が標準とのこと。

非浸潤という結果であったなら、放射線治療もホルモン療法もやらないと伝えていたのですが、「転移の可能性がないとは言えない」というとても微妙な診断であったため、改めて癌について、そして放射線治療とホルモン療法について私たちなりに理解してから決めたいと思いました。そして、1週間ほど猶予をいただいたのち、いずれの治療も受けないことにしました。幸いだったのは、その方針はありだと思いますよと担当のお医者さんが肯定してくれたことでした。突き放されるのではなく、そう決めたことについて後ろめたく思う必要はないですよと言ってもらえた時は、何だかほっとしました。これからは3ヶ月ごとの血液検査で引き続き様子を見ていただけるとのこと。

改めてこれまでの経緯を覚え書き程度に説明しますと、9月に入った頃、胸にしこりがあるのではと違和感を覚えたことから始まります。

まずは最寄りの病院へ。受診する診療科は週一回しか診察日がないので見つけてから何日も経ってしまいました。焦れた想いを抱えつつ診察を受ける。しこりというよりも元々乳腺が硬いそれなのだろうけど、気になるのであればどこか乳腺外科を探したらいいとのこと。地域のかかりつけ病院という位置付けであるからまず受診したのだけれど、何も手がかりを得ず唖然としてしまう。

9月中旬、改めて高知市内の乳腺外科へ。確かにしこりはあるとのこと。マンモグラフィー、超音波検査、細胞診。結果は2週間後。

9月下旬、検査結果。より詳しく調べなければ判らないとのこと。大したことないだろうとタカを括っていた私は少なからぬショックを受ける。にしても、わからないとはどういうことなのか、私にはそれさえわからない。

10月上旬、3日に渡って、MRI検査、組織診、消毒。検査それ自体が身体に負担を与える。造影剤を注入の上30分から1時間近く高い磁場にさらされるMRI検査。吐き気に苦しむ。組織診は細胞診と違い、部分麻酔の上、3ミリ皮膚を切って太い針でもって組織を採取する。出血もそれなりに。1週間後に結果が出るとのこと。

10月中旬、告知は午後に行っているというので行けば私たちのような夫婦連れと、いつもより静かな院内。それぞれが深刻な面持ちで距離をとっている。あぁ、何ということだろう。嫌が応にも緊張が高まります。そして、私たちは乳がんであると告知されました。血液検査による数値のいろいろ、手術は部分摘出か全摘か、そして、術後には週5日を5週の放射線治療と5年間のホルモン療法をすることが標準であると伝えられました。淡々と話が進むなか、呆然としそうになるのを切り替えて説明を聞こうとするのですが、言葉がなかなか頭に入ってきません。嫁は十分に覚悟していたようで、しっかりと聞いて質問もしています。大したものだなあ。看護師さんが別室で(カウンセリング?)今後のことで何か聞きたいことがあればというので、大まかに費用はどれくらいになるのか聞く。しかし、想定外の質問だったようでかえって困らせてしまった模様。あまり要領を得ない。費用はいくらかかっても構わない、なんて言えないから多少なりの心算として訊いているのだけれど、、、(高額医療費制度があることを他で知る。)

手術の日取り等相談。手術は約1月後。

10月下旬、CT検査。造影剤の副作用で吐き気と目まい。数日続く。しんどそう。

手術前カウンセリング

11月中旬、手術。(入院から退院まで5日)術中検査の結果、リンパへの転移はなし。摘出したがん腫瘍とその周囲1センチを病理検査へ。結果は4週間後。

経過診察。消毒。

12月上旬、診断結果。「非浸潤性、ステージ0」であったこれまでの診断が、「浸潤性、ステージ1」に変わる。

1週間後、改めて放射線治療とホルモン療法を受けない旨伝える。

 

ここまで約3ヶ月間、通院等に18日、市内に通うことになりました。その間、畑の方は9月上旬の種まき後、穂紫蘇の収穫と仕込み、ネギやニラの手入れ、生姜の土寄せ、ニンニクの植え付け、里芋の土寄せ、人参の草取り土寄せ、玉ねぎの定植など、取るもの手に付かずとなりながらも畑に向かいました。そうして10月も中頃になり順調に発芽していた葉物や大根、カブなどの草取りと間引きをしに行くと不織布の中で虫が繁殖しすでに致命的な状態。もう、嫁のことに専念した方がいいと思いました。これからのためにとはいってもこれからがいつまであるのかそれもわからない、そんなふうに考えてしまっては自分で足下を崩すことになりますが、とにかく今は貴重な二人の時間を第一にしたい。一緒に山登りしたこと、ビバークした晩のことは手術に向かう嫁を大いに力づけたようですし、私としても前向きな気持ちになるいいきっかけとなりました。

何事もそうだと思いますが、治療についてもどこまでを自分はよしとするのかとても判断の難しいところです。図書館で借りてきた数冊の限られた本。そこに書かれている言葉をどう理解するか、これまでの知識や経験、そして自分の拠り所である農業に置き換えて考えてみる。安全だというその根拠に納得できるのかできないのか。副作用については大丈夫という理由がそれを抑えるための薬があるからだなんて、、、どこまでが病気による苦しみで、どこからが薬の副作用による苦しみなのかわからなくなってしまうのではないか。予防すること。再発の可能性を数%でも下げること。その数パーセントの違いは決定的な違いなのか。わからないことばかりです。本を読み進めるうち気づけば、自分ならこうしたくないという選択の後押しとなる言葉を探す作業になっていました。

明確な外的要因がなくともがん細胞は一定の年齢を越えると誰の身体にも発現している。その真偽はさておき、体の免疫力を高めること、健全な生活を習慣づけること以上に自分達ができることはないというところに落ち着く。やはり、単純な答えなんてない。だから考えようによっては、今回の結果にもっと喜んでいいのではないか、早期発見できたことで悪性ではあったもののギリギリ間に合った、手術も成功した、それで十分と言えるのではないか。再発という重苦しい不安は放射線治療をしてもホルモン療法をしても完全には消えないし、そればかりか私達は新たな不安を抱えることになる。どういう心構えで生きたいか。いかに前向きに生きるか。置かれた状況は人それぞれ、誰においても当てはまる正解なんてないのだし。

思いが定まり、また一つ大きな壁を乗り越えたという嫁の晴々とした顔が何よりです。よかった、これでよかった。

里芋、生姜、人参は無事収穫を迎えました。

 

ちぃ坊は少年から青年へ。いたずらっ子ですが食が細く、Q太郎兄いの野太さには敵わない様子。

氷点下の工石山へ

また山登りがしたい。そんでテント泊したい。すっかりその楽しさを知ってしまったいく農園。我らの裏山、工石山へ。

寒風吹き荒ぶ一夜。外へ出ればたちまち歯が噛み合わなくなるほど寒い。風邪引きそう、、、

寝袋にくるまり足はザックの中へ。私のシュラフは冬用ではないのでしっかり着込みますがそれでも寒い。上半身あたりのダウンがペタンコ。嫁がシュラフカバーよろしくツェルトをかけてくれました。が、これが大変、しばらくして気づくと結露でシュラフはベチョベチョに。それほどまでに断熱性を失っていた私のシュラフ。とにかく寒い、体の発する熱と失われる熱がギリギリ均衡を保っている感じ。嫁はほとんど寝られなかった模様。

しかしそうまでしてでも、美しい朝焼けを拝めれば、なんとも幸せな気持ちに。

一六タルトと淹れたてのコーヒー。嵩張るドリップポットはやめて、手持ちの保温ボトルでドリップ。湯は飯盒で沸かす。必要最小限をぴったりパッキングできるのが嬉しい。ベンチにはキラキラ氷の粒。

一泊できる装備を今のところ私35リットルと嫁30リットルのザックにまとめてますが、この気温までが限界かも。

土佐の海岸線が光ります。

小一時間歩いて河原に到着。仕込んできた肉味噌を和えてパスタの朝ごはん。水場があるところでは米を炊きたいけれど、限られているところでは少ない水で済むパスタが便利。「ソロキャンにオススメ!」と書かれたポップに踊らされ、水量豊富な川原で米を炊かないことに。まあ、今後知らない山へ行くための予行練習です。

土佐矢筈山へ〜初のビバーク〜

9月の中旬に嫁の身体に異変が見つかり、1ヶ月にわたる段階的な検査の結果、近く手術を受けることになりました。年頃とはいえ次から次へと色んなことが起こるものです。今後のことは術後検査の結果次第なのですが、冬の作付けは中断し、治療を最優先することに。

手術まで3週間と少し、思い切って山登りに行きました。紅葉彩るブナの原生林へ。

 

山で食べるご飯は毎度驚きの美味しさ。おにぎりの具は11年前に漬けた梅干し。

とにかく、細胞が喜ぶことを

 

往復6時間ほどの行程を休みながら存分に楽しみ、予定よりも1時間ほど過ぎてしまいました。秋、陽は傾いてからが早く、あれよあれよという間に山の様相は一変。遠くで鹿の鳴き声がと思えば前方にその姿を現わし、後ろ山側に猪の子がと思えばその親でしょうか、けたたましい足音と共にすぐ前を通り過ぎてゆきます。その量感たるや。いよいよ自分たちがいるべき時間ではなくなってきたようで気が急きます。もはや薄暗くヘッドライトを点けなければ先が見えない状況。道順は所々木に巻かれた印を頼りしていたのですがあと少しの地点でなかなか見つからず、しばらく探し回ったところ、思っていたのと違う方向に見つけました。おかしいとは思いながらも兎に角印を見失わないように、次が見つかるまで嫁には動かないようにしてもらい先を探すということを繰り返しました。しかし、行きにはなかったはずの谷に出くわし、所々水が染み出し滑りやすく危ない斜面になりました。そして、次の印がどうしても見つからない。いよいよおかしい。これはつまりよく耳にする道迷いの末の遭難、に足を踏み入れているのではなかろうか。雨で流された後のようなガレとぼそぼその軟弱な地盤、不安定な岩石は転がり出せばあっという間に見えなくなるような斜面。これ以上動き回ってどちらか一方でも怪我をすれば本当の遭難になってしまう。ここでビバークするしかないという決論に。不安とワクワクが入り混じる不思議な感覚。どうやって一夜を明かすか。出発前に得ていた情報では夜の気温は1℃もしくはそれ以下。

日帰りでも必要最低限の荷物として一泊分の装備をしてきたのが心に余裕を与えてくれます。木の根元に二人が座れるほどの窪みがありました。フライシートを被りザックを抱えて一夜を明かす。予想される気温は1℃以下。無理。朝になれば間違いのない地点まで戻って仕切り直す体力を残しておかなければならない。果たしてテントを張るだけのスペースを確保できるか。

ガレを除けてならし、わずかな窪みと木の根っこによって何とか滑り落ちないように出来そうです。二人用の小振りなものであったのが幸いしました。斜面が急なのでザックを一旦置いて荷物を出すにも気を使います。二人が下手に動けばポールを折ってしまったり、何かを無くしたり、どじを踏みかねないので一人で張ることにしました。嫁がこちらを信頼してじっと待ってくれるのがありがたい。

無事に張り終えてテント内に腰を落ち着けたのが18時過ぎ。外気を遮断する部屋ができたことで大分ほっとすることが出来ました。残る水は1リットル弱。食糧はカロリーメイト1箱、キャラメル6つ、マカロニ2食分(250gほど)、自家製肉味噌100g強。ひとまず、口を湿らす程度に水を摂り、キャラメルを一つずつ食べて寝袋にくるまることにしました。夜はこれから長い。

山登り道具は懐事情により一度に揃えるというわけにはいきません。私のスリーピングマットは学生時代からのもの。嵩張るので今回は持ってきませんでした。とはいえ、テントの中に敷く銀マットとアンダーシートは新調しておいたので湿気と冷気は上がって来ず、突き当たる岩を何とか避けて横になることが出来ました。嫁にはエアーマットがあるので快適そう。私も欲しい、、、まあ、前回はブルーシートを使っていたくらいですから、随分良くなったものです。

さて、夜も更けてまいりました。テントの外が気になります。ちょっとした物音が何の音なのか。葉の落ちる音が何かの動く音に聞こえます。登山口には熊出没注意の看板が。一度出て用を足すことにしました。足元のザックが頼みの木の根を超え宙ぶらりんになっているようで大丈夫かも気になります。

自分たちのおかれている状況を俯瞰してみる。一応獣の気配はないようです。空は曇っていて時折見せる月も木々に隠れ、あたりは薄暗い。大丈夫、嵐にはならない模様。暖を取る熱源がないのであまり外に居続けることはできません。時折吹く風、山の中で火を起こしても大丈夫そうな時と場所というのはかなり限られているのでしょう。温存に努め、ただじっと夜明けを待つしかないようです。とはいえ、一度外に出て気も落ち着きました。

うつらうつら、少しは寝たでしょうか。身体に当たる岩を避けられる姿勢は限られているので頻繁にもぞもぞ。ちょうど姿勢を変えようとしたその時、鹿の鳴き声が、、、と思う間もなくごく近くではっきりと足音が。かなり近い。嫁を振り返ることもできません。ここで下手に驚かして踏み倒され後ろ足で蹴られでもしてテントごと谷に転げ落ちるのは御免被りたい。腰を浮かした状態で固まってしまいました。これから一体どれだけの訪問に冷や汗を流さなければならないのか。しばらく無言の二人。兎に角、猪じゃなくてよかった。熊じゃなくてよかった。

 

訪問者は一頭で済み、無事、朝を迎えました。さて、これから速やかに撤収して道を戻り、下山できるか。寝汗をかいたのでしっかり水分を補給したいところですが残りはわずか、口を湿らす程度に留め、チーズ味のカロリーメイト一本ずつと自家製肉味噌を舐めました。おいしい。

問題となった地点に戻ってみると何とも、これが見つからなかったのか、確かに薄汚れて少し木の影になっているけれど、これさえ見つけていたらその次もまたその次もたやすく見つかるところにあるではないか。まあ、これであとは一時間もかからず下山出来るだろうということで、改めて朝食を作ることに。パスタを茹でて肉味噌を絡めていただきました。お腹いっぱい。幸せ。

一応キャラメル2つとカロリーメイト2本、水500ml弱を残していざ再出発。方向を確かめながら。思ったより時間はかかりましたが無事下山。となると昨晩そのまま順当に進んでいてもそれはそれで真っ暗な中を歩かなければならなかったので、かえって危なかったかもしれません。結果よし。早い段階でビバークを経験できて次なる課題も見えてきました。

緊張と弛緩。手術までの日々を淡々と過ごしていたら叶わなかったであろうくらい、リフレッシュできました。そして何より、初めはCT検査に使った造影剤の副作用からか時折吐気を催し唇が乾き顔色も優れなかった嫁が血色よく、一歩一歩、生きる気力に満ちて歩く姿を見て、悲観に暮れそうだった私自身、心配ない大丈夫と思えるようになりました。

収穫はじまりました

種蒔から2ヶ月経ちました。小蕪の間引き菜、山東菜、レタスミックスです。追って大根の間引き菜もはじまります。

緊急事態の今、我が家では仕事の整理をしています。出荷部屋の模様替え、倉庫の整理、工房も畑もより丁寧に落ち着いて仕事ができるように整えなおそうとしています。新しい展開を模索しなければとは思っていません。これまでやりたくてもやれていなかったことをしています。

私が大事にしている言葉は

「人間の徳は その異常な努力によってではなく その日常的な行為によって測定されるべきものである」(パスカル)です。

最後に引いたおみくじに書かれていたのですが、それがどの言葉よりも常に自分に言い聞かせたい言葉だったので座右の銘にしました。若さに任せた力業や人並外れた技量を誇るのではなく、当たり前の積み重ねがいかに大切でそれを続けられるようにすることがいかに大変か。大きな出来事によって気付かされ、人生を転換させることもあると思いますが、自分の進むべき道は平時にこそ見出されるべきではないかと思います。

Q太郎が友達(弟?)を連れてくるようになりました。まだまだちっちゃくて、軽やかに飛び跳ねます。警戒心が抜けず微妙な距離を保っていますが、それくらいが丁度いいのかも。ちぃ坊と呼んでます。

4月中旬、雪が降りました

今朝は寒くて目が覚めました。向こうの山は雪、こちらは冷たい雨が降っています。昨日は霜が降りました。芽が出たばかりのじゃがいもは草の中で霜に当たらず無事でした。

今はとにかく種を播き、水を遣る毎日です。収穫に至るまで少なくとも3ヶ月かかります。いく農園の端境期は4月。自分たちの暮らしでは一年を通して野菜をほとんど買わなくなり、この時期は売り物にはならないけれど畑に残っている菜花や春菊、人参などを食べています。蕗やセリ、ワラビなどの山菜を採って季節を楽しむこともありますが、基本は売り物として、いいものが安定して採れるよう手入れを続けています。誤って踏んでしまったり、周りの草と一緒に刈ってしまわないようにするにはやはり、場所を定めてそれ相応の手入れが必要です。タラの芽も食べたいのを我慢して残しています。

Q太郎はとても自立していて、精力的に出かけて行きます。ご飯が欲しい時の声が特徴的なのでわかるようになって来ました。育ち盛りなのでしっかり食べて強くなって貰いたいものです。あげるときはもっぱら生の鶏ガラをぶつ切りに。魚のアラがたまの御馳走です。ないときはない。今晩は雨の中ネズミを獲って来たようです。

 

椎茸の駒打ちをしました

地域の方から浅木を伐ったから薪にしないかと声をかけて頂きました。今は種蒔シーズン真っ盛りなので断るべきかとも思ったのですが、一日一車分ずつ、ごとごと採りに行かせてもらうことにしました。実際、我が家で伐れる分は残すところ10年分もないので、不安に思っていたところでした。

現場は車で10分ほどの山。道の上斜面だったので助かりました。人の山なのでどこまで片付けておくべきか難しいところです。50センチほどに玉切りして持ち帰り、できるだけ雨のかからない置き場を確保します。木によって乾いてからでは極端に割りにくくなるので、できるだけ割ってから。とても甘い香りのする木、ちょっと臭いもの、いろいろです。中にくぬぎがあり、時期的には遅めですが椎茸の駒打ちをすることにしました。800コマ打ってまだありましたが、きりがないので終いにしました。

これまで3往復しましたが、もう3回分くらいありそうです。感謝!しかし、畑仕事の時間が。

種まきがはじまりました

山仕事がひと段落したあとは、家の雨樋を修繕したり、水道管の割れたのを修理したり、後伸ばしにして来たことを片付け、ようやく種まきがスタートしました。

水道管は壁の中で割れており、どこに配管されているのかタガネではつって探し出すところから。パイプをある程度露出させないと継げないのでかなり壁を壊すことになりました。台所の水道管も蛇口の元が割れてしまい、これも壁を壊しての応急処置となりました。いろんなところが老朽してギリギリです。

 

それから、ひとつ嬉しいニュースが。

 

我が家からある日突然、ビー助が居なくなって寂しい思いをしていたのですが、春になってQ太郎がやって来ました。これまで時々、土間を物色しているところに出くわすものの、なかなか距離が縮まらなかったのですが、ある日近くの水路のあたりで何処か弱々しく泣く声が聞こえて来たので声をかけてみると、何か通じたのか急に向こうから近づいて来て打ち解けてしまったのです。なので、名前はQ太郎にしました。手足やお腹などに傷があり、身体も汚れていましたが、タオルで拭いてやり、日に日にきれいになってこちらも驚くほど顔つきも柔らかく変わりました。模様は違いますが、とてもビー助に顔も雰囲気も似ているので、きっとQ太郎はビー助の息子に違いないと考えています。さすが野生児、鳥を獲るだけでなく先日はウサギを仕留めて来ました。

山仕事備忘録〜東の藪’20〜大径木〜

畑の南東を遮ってきた大物を厄年の前に伐ることにしました。3年前の伐採は畑を挟んで西側になり、この一本が片づけばまた一歩大きく前進できます。

農業と共にある暮らしの中、両側ともかつては竹など生やさず、杉ひのきの植林は持ち主がここでの暮らしをやめる最期に植えていったそうです。

植林するのは時代の流れだったのでしょう。しかし、さらに時代は移り、もはや不利地では業者に頼んでも伐採してもらえず、近在の主立った製材所では直径40センチを超える木は機械に通らないからと断られ、チップ工場にしか引き取ってもらえないようになった。引き取った業者はいいものを選って他へ転売しているらしいというのが、もっぱらの噂です。

粗悪な木ばかりとなれば、集成材にするしかないというのも道理だし、建築現場からしても一本一本クセを見極めるような数値化できない技量を要する仕事よりも、狂いのでないことを前提とした画一的な建材に移行することは、人材が不足し、時短が求められる中では当然でしょう。

抗うことのできない時代の流れ。かつて木材は割って製材するが故に、節がないよう枝打ちを入念にしておく必要があった。しかし、動力による鋸引きが可能になると関わらず製材できるようになり、手間のかかる枝打ちは自然遠のいた。枯れた枝は死節となり、材にしたとき抜け落ちて穴となる。安価に量産する流れでは良材を育てるための地道な仕事は当面の利益にならないから切り捨てられる。間伐や下草を刈るよりも植えることが優先され、今や、腐れや虫食いの入った間伐しても手遅れな山ばかりです。それは間伐があまり言われなくなり、皆伐(かいばつ)が推進されていることからも分かるはずなのですが、山仕事を実際にしたことがない山主には、なかなか理解してもらえないようです。

子や孫に財産を残したいという持ち主の思い。その場つなぎとして住むことを許されている私達。伐採の許可を得ることもなかなか難しい。

日常の平穏を享受する為、裏山や畑の周り、そこ此処を伐っては片付けての繰り返し。10年以上経ち、この木周辺にも陽が差し込むようになりました。幾度となく見上げては伐れるその時を待ち続け、来年の厄年を避けるとなれば3年後か、となれば足踏みするのはもどかしく、気力体力ともに今ならと思えたので伐ることにしました。とはいえ、それから倒す道を開くのに3日を要しました。安全に倒すためにはかかり木にならないことが第一。そして、足元を整えておくこと。手間はかかっても十分に片付けておく必要があります。ちょっとした枝が命取りとなるのです。

(写真上、奥の木を倒すため手前に向けて道が開けたところ。左が谷側、右が山側。)

枝にかかるだけならまだしも、幹と幹の間にがっちり挟まってどうしようもないという状態はもっとも避けたいので、谷側を十分に空いておく。現場は地域の人が時折通る小道のすぐ上斜面にあり、伐倒したのちは少なくとも次の冬までそのまま、不意に動いて事故が起こらないよう後の作業性も考えて念には念を入れておく必要がある。急斜面の山間部では、玉切りしたものが転げ落ちて民家の屋根に直撃するという最悪の事態も十分考えられる。立ち木を一列残し、切り落した枝葉の向きも揃えてできるだけ水平に道を作り、伐り株を生かし安定させる。日も暮れ、本番は翌日に持ち越しとなった。

さて、いよいよ明日伐ると決めたもののなかなか寝付けない。これまで繰り返し読んできた手引書と、新たに手に入れたより詳細な本を読みながら、改めて気をつけるべきところを整理し、見落としがないか頭を巡らす。

抜根直径は65センチ以上、これまでで最も太い木でした。枝が片側に偏っており、倒す方向の斜め反対、谷側に重心があったので、コントロールを失えば人が通る小道、畑、お墓の方へ倒れることになってしまいます。慎重に楔で重心を起こしつつ倒す方向に傾けていかなければならない。牽引具を使わなかったこともあり、楔を打ち込むのが大変。打ち込む先から相当な重量によって追い口に減り込み、半分それ以上打ち込んでも全く傾きが変わっていない、となったときは経験したことのない量感に恐ろしさがこみ上げてきました。やはり集落の中ということが余計に緊張を強いる。今一度、気を落ち着け、山側、真ん中、谷側と3つある楔のうち、真ん中を打ち込んで軽くしてから谷側を打ち込み、山側は他の2つに追いつく程度に打ち込むことを何度も繰り返す。受け口の深さは木の直径の3分の1で20センチほど、念入りに整え芯抜きをし、ツルの幅と高さは必要十分となるよう気を付けていた。腐れは無く、風は微風。焦る必要はないはずです。手鋸で追い口を再調整し、僅かづつでも打ち進め、ツルの裂け具合を確認し、最後まで冷静に作業を進める。伐り倒して枝を払って片付けるのに丸一日費やしました。

改めて伐り口を見る。重心の偏りを起こしやすくするために角度をつけた谷側、その角度をあらかじめチェーンソーでもう少しつけておいてもよかった。寸足らずな手鋸で最後調整しているので、歪なラインになっている。改めて見直すと見え方が違ってくるものです。

偏重木の場合、その偏りを起こす方向に必要最低限、牽引すればより確実に作業を進めることができるのではないか。牽引すべき方向が自分の中で少し明確になりました。牽引力で倒そうとするのではなく、あくまで楔を使って木の自重で倒れるようにすることが基本でしょう。

今回牽引しなかったのは、下手にロープを張ると倒れる際に予想外の動きをしてかえって危険だと思ったから。立木が密集しているので余計その危険がありました。

伐る手順の一つ一つがどのように作用しているのか、自分の身体を木に見立て、3つの楔それぞれによって押し上げられる圧力とその反応をイメージする。そうすることでより立体的に捉えやすくなりました。危険をともない技量を要する仕事。これまでの経験を何度も振り返り、何故そうなったのか、どういう予想外の動きをしたのか必死に考えるので、山仕事の間はそれに全精力かけることになる。畑仕事も工房仕事もストップしてしまうけれど、それでも仕方がない。

こういった山仕事を続けていますが、しないで済むような条件のいい土地であったらとは思わないのが我ながら不思議なくらいです。土地にはそれぞれの問題があり、新規に就農する場合、根を下ろすのは農地が先か家が先か、多くの場合、農地はひとまず借りれたものの家が伴わず離れた別の地域にあったり、心血を注いできても返さなければならなくなったり、少なからず営農や栽培技術以前の問題に悩まされると思います。私はそういったことを経ていつの頃からか、林業に限らず農業も一代でどうこうなるものではないと思うようになりました。ここと決めた場所を少しでも良くして、その恩恵を日常に得られるならそれで十分なのかも知れない。ただ、その望みでさえ、こうして何の保証もない危険を犯さなければ叶わない。そして、地域が許容してくれるのはどこまでなのか。生きようと思えばどうしても波風を立ててしまうのです。

連日の山仕事をこなせたのも、一昨年よりはじめたトレーニングの成果だと思います。休むのも仕事のうちというところでしょう。

後から知ったのですが、数え年だと今年が本厄でした。無事に終わってよかった。