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瓶ヶ森へ

集落では田植えの一区切りがつく6月中旬、道作り(草刈り、側溝や谷に溜まった土砂・芥とりなど)が先日終わり、畑仕事もあと少しでひと段落つきそうです。山行は秋の三嶺以来。

吉野川の源流と言われている瓶ヶ森は、我が家から80キロ少し、車で2時間ほどひたすら高度を上げていきます。林道に入ると、落石や路肩が落ちかけている箇所が至る所にあり、気軽なドライブとはいきませんが、景色は此処ならでは、毎度来て良かったと思えるところです。

 

瀑布

たっぷり雨が降った後は空気が澄み渡り、深呼吸したくなります。コーヒーとお菓子をリュックに詰めて山道をガタコト小一時間。豊かな水によって湧き出ずる力、この上なく新鮮な風が全身を包んでくれるのが何とも心地いい。

 

2023年 元日

おかげさまで、今年もいく農園として新年を迎えることができました。ご愛顧くださる皆さま、誠にありがとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

裏山から初日の出を望み、とても静かな時を過ごしています。暮れに、いつもお世話になっている地域の方から上等の猪肉と自家製のお餅をいただきました。子や孫のために拵えたものを私達の分まで用意してくださったのだと思います。思い掛けず年越しのご馳走と新年のお雑煮を構えることができ、感謝の気持ちでいっぱいになりました。今年も頼まれた草刈り頑張ります。

今日は何もしなくていい日。したいことをする日。裏山でコーヒーを淹れ、気ままに薪を割り、気ままに川でお茶をして、晩御飯の支度に明るいうちから取り掛かる。畑に牛蒡を掘りに行き、子芋の皮を剥き、金時にんじんの土を落とし、出汁をとり、煮しめを作る。だし巻き卵を焼き、おにぎりを握り、いざお酒をいただく。蒲鉾にわさびと醤油。瑞々しい白菜の芯には味噌。贅沢な時間。

Q太郎もチー坊も幸せそう。

出汁をとっていると、どこからともなく現れるQ太郎。出汁ガラの鰹節、卵を溶いたボウルも綺麗に片付けてくれます。生きることに貪欲なQ太郎は年中くしゃみをして鼻をすぴすぴさせているけど、筋骨逞しく体力は充分。要領がよく狩はうまいけれど、ダメなことを何度ダメと言っても我慢のできないチー坊はというと、ふにゃふにゃになって日向ぼっこ、どこかでご馳走にありついたのか余裕の無関心です。二匹とも膝に乗るのが大好きで、こちらも不思議になるほど人との触れ合いを求めるのです。

三嶺テント泊、そして小屋泊

11月8日はこの秋最後のチャンス、再び三嶺を目指すことにした。一泊二日の予定。

話し合いを重ねた結果、殆どの登山者がしているように朝6時には登山口に着いて早く登り始める、それが必須だろうという結論に至った。となれば、2時半ごろには起きて3時には家を出なければならないし、前夜のうちに弁当を作りパッキングまで済ませておかなければならない。なんと気合のいる休日であろうか。21時には就寝、何とか起きて3時半には出発することができた。

西熊渓谷に着く頃には夜が明け始め、無事光石登山口に到着。6時半、朝露の中登り始める。風は穏やか、空は青い、最高の登山日和。前回引き返したポイントを通過、ついに三嶺を間近に望んだ。弁当がうまい。

最後は急登。鎖場と整備されてはいるものの躓いたり転けたりしたら落ちそうな道が続く。大きな浮石もあり、落石も起こりうる。人が怖がるのを見ているとこちらまで不安になるものだが、平常心であれば注意力も発揮できる。そう、自分に言い聞かす。ただ、荷物が重いとやはりバランスを崩しやすい。泥土のついた靴底で岩の上を歩くと滑る。

14時、何とか無事頂上へ到達した。家を出てから10時間半、コースタイムは7時間半と言うことになる。(地図などに載っている参考タイムは5時間半ほど)

なんと素晴らしい天気であろうか。静かで、見渡す限り山々が連なり、遠くに海が見える。間違いなくここは四国で最も美しいと言われる山であった。コーヒーを淹れ、パウンドケーキで一服。嫁のパウンドケーキはクラシックなレシピで、卵、砂糖、粉、バター、全て同量。シンプルに1パウンドずつという意味でパウンドケーキというらしい。山仕様はそれにチョコやローストした胡桃を加えてパワーアップしてある。

山登りでカロリーを思った以上に消費するのは、重い荷物を背負って長時間歩くからだけではない。はじめての道に迷いつつ地図を見て必死に答えを探したり、思った通りに行かなくて不安になったり、緊張したり、そして、風に当たり続けて冷えたり。頭を使うこと、感情をコントロールすること、変動する天候下で身体を正常に保つこと、一つ一つにかなりのカロリーを要するのだろう。慣れないうちは尚更だ。そんなことに改めて思い至る。

十分休憩したのち、ヒュッテのあるところまで下ってテントを張る。笹原の中に張ってはいけないとなるとごく限られる。道沿いに1カ所空いていた。誰かが張り綱を止めるのに使ったであろう頃合いの石が置いてある。風を避けられるような地形ではないので、風向きが心配。しかし、北西からと思えば北東に変わりまた北西。前回の尾根筋は夜通し北東の風であった。先客のテントが一つ北西向きに張ってあるが、どうしたものか。天気予報を確認する術がなかったので、結局、ヒュッテが建つ向きに倣い、北東の風にあわせて張ることにした。入念にペグダウン。思っていたより刺さりやすかった。日が暮れ始めると一気に冷え込み、まだ暗くなりきってもないうちからフライシートに降った夜露が凍る。

晩御飯はクスクス。手軽な市販のペペロンチーノの素に加えて、挽肉にたっぷりの生姜とカブ菜を醤油と味醂で甘辛く煮詰めた常備菜を和えて食べる。少しでも野菜が有難い。身体を冷やしてしまうと寝れなくなるので、皆既月食についてはほどほどに、タイミングが合えばで寝袋にくるまった。

有難いことに風は穏やかだったものの、気温はさらに下がっていった。冷気が寝袋を通過して身体に降ってくる。カイロをお腹と腰に貼って、カッパも着込んで何とか過ごせるように。嫁もシュラフカバーを新調したが、それでも冷えるようだ。眠れない。ならばと星空を楽しんだ。一旦影となった月が復活し始めるタイミング、天の川も美しかった。足踏みしたり、体操したり、凝った身体をほぐす。同日、白髪山はマイナス五度であったらしい。更に100メートル以上標高のある三嶺は尚下がっていたことだろう。ちなみに、嫁が持っていたキーホルダーのような気温計は0℃からテコでも動こうとしなかった。

少しは寝ただろうか、月明かりの中、朝焼けがはじまった。

二日目は、三嶺から稜線を西へ、大タオ、西熊山、お亀岩で水を汲んで、綱附森方面の稜線伝いに下山する予定であった。お亀岩まで無事に到着。地図で先を確認する。お亀岩から西へ一つ目のピークより稜線を伝って南下し、途中尾根分岐を一つやり過ごしてから谷へ下ってゆく。お亀岩から見える稜線を目指して進んだ。その先にある天狗塚や天狗峠は多分、あれとあれだろう。

向かう先にはツツジの群生があり、迂回する笹原には無秩序に道ができている。ショートカットしようとして道なき道を思い思いに歩き回った結果だろうか、既にどれが正規のルートかわからない。それに、ここに至るまで、登山道の印がわかりにくかったり分岐に看板があったりなかったり、今回もどこが分岐かは分かりにくいだろうという心づもりでいた。地図を確認する。分岐ポイントに名前は書かれていないし、きっと看板もないのだろう。写真下の手前の稜線へ向かった。テープや紐といった印は全く見当たらなかった。ただ、幾重にも踏み固められた道がその尾根へと向かっていた。

小ピークあたりまで来たところで、その切り立った様に緊張が走る。巻道というのだろうか、笹の急斜面を横切る道が続いていた。中々スリリングであるが何とか行けると踏んで歩き出す。が、振り返れば後ろで嫁が動けないでいる。足の運び方を教えて、大丈夫、何ということはないと落ち着かせる。実際に危ない道だった。幅も僅か片足分、笹の根が露出して滑りやすいし、踏み抜けてしまっているところもある。いざという時には笹の株を持って何とかなるのかどうか、必要以上に力んで僅かに滑り、一瞬、谷側の足に力が入らなくなって冷や汗が出る。何とか持ち直し後ろを振り返る。思っていたより嫁は良いペースで付いて来ていた。何とか頑張ってほしい。

一先ずその巻道を渡り終えた。沢山の踏み跡はさらに先へ迷いながら、何かあっても取付けるツツジの間を縫う様に続いている。ここさえ越えれば後はより木々が生い茂って安全な緩斜面へ抜けて南下するはず。嫁を安全なところ(写真下、稜線真ん中の窪んだあたり)に残し、先を見に行く。が、行き着いたのはまさに断崖であった。

岩が露出した崖。鎖もロープも何もない。南下するはずの稜線も全く見えない。ただ、幾重にも彷徨う踏み跡が右往左往しながら谷へ吸い込まれる様に続いている。これはまずいと思った。かつて矢筈山で道に迷いビバークした時の比ではないくらい滑落の危険を感じた。時間は14時近く。引き返すことにした。あの笹の巻道は二度と通りたくない。ツツジの間を縫って何とかお亀岩まで戻った。無事に戻ってこれた鞍部の何と平和な景色であることか。

水を汲んで遅い昼飯をとったら15時、下山は翌日へ持ち越しとなった。来たルートを引き返すしかない。既に行動を終えるべき時間帯であるが、三嶺までは戻っておくことにした。自分達のペースでは、ここからだと1日で下山できるとは思えない。夕日を背に稜線を歩く。暗いのに明るい。夕陽に照らされた笹の海原。何と幻想的で美しい。これをアーベントロートと言うのだろうか。

振り返れば、嫁の息の上がり方がおかしい。そして、再々水を飲む。食欲はないと言うが、シャリバテになってはまずい。羊羹を食べるよう少しキツく言った。とにかく自分ではどうにもならないほどバテてしまっているのだろう。無理もない。二日続きの寝不足の上、緊張につぐ緊張。足も痛むという。何とか気持ちだけでも回復してもらわなければ。この美しい景色は心細い中でこそ瑞々しく際立つものではないか。少し元気を取り戻した嫁も、この景色を忘れないであろうと言ってる。何よりである。

18時前、無事、三嶺に到着。風が強く冷え込む中、テント泊をもう一晩して寝不足を重ねるのは翌日に不安が残る。ヒュッテに避難させてもらうことにした。先客が思っていたより大勢、夕食の最中であった。親世代であろうか、三嶺から剣へ縦走するとのこと。20時には早々に就寝していた。

我々も米を炊き、ようやくあったかい飯にありつく。しかし、嫁の状態が思わしくない。食べ物が喉を通らないという。どうしたものか。普段は私と同じくらい食べることもあるのに、この山行では端から食べる量が少なすぎる。2泊までの食料と燃料には十分余裕あるが、3日目に寝込んで動けないとなってしまって4日目を迎えるにはあまりにも心許ない。どうするか、最悪の場合、嫁をヒュッテに残し明日は自分だけ下山して食料を補充して戻ってくるしかないか。外は風が吹き荒んでいる。前回の冷え切った稜線歩きを思い出した。三嶺はかつてないほど厳しい山であった。

夜中も度々ゴソゴソ動く嫁。寝つけないのだろう。寒いようなので使っていない自分の上着を渡す。少し寝ただろうか、嫁が寝袋から出ようとしている。気分転換に一度外に出るようだ。帰ってきて聞くと、だいぶんマシになったとのこと。やれやれ。少しホッとする。

夜が明けた。嫁はそこそこ回復したようだ。飯も食べられると言う。外はまだ風が吹いている。どんな天気になるのか。休み休みゆっくり歩いて下山するのに8時間はかかるだろうか。

不安だった山頂直下の鎖場は思いのほか順調に降りることができた。帰る道々、自分達が迷い込んだ稜線と地図を何度も照らし合わせる。が、どうしても納得がいかない。どれが天狗塚でどれが天狗峠か、分岐点はどこで、どの稜線を行くべきだったのか。何度見ても頭が混乱して読み解けなかったのだが、嫁の一言により、天狗塚がどれであるかをそもそも間違えていたことに気付かされる。となれば、もう一つ奥の稜線が下山ルートだったことになる。思い込みとは恐ろしい。手前に見えるピークが分岐だと思い込んだことで後の情報がうまく整理されなくなったのだろう。何故か、地図には目指すべきピークのさらに手前にもう一つ別のピークがあるなんて示していない、眼前に見えるピークの存在がないものとされるなど考えられないのだから。抑えるべき幾つかのポイントの一つでも欠けてしまうと全体像が崩れてしまう。思い返せば、あの巻道を行く局面においてでさえ、地図をどう読むか擦り合わせようとするも上手く噛み合わなかった。改めて私が持っていた地図と嫁が持っていた地図を見比べてみる。

余談であるが、いずれもかつて私が買い求めたもの。改めて何年版か見て笑ってしまった。2002年版と2004年版。いつか三嶺に登りたいと思ってから実現するまで20年経ったらしい。20代、30代はとても遊ぶ余裕などなかった。

さて、話を戻す。どう目を凝らしても見えなかった小ピークが嫁のものには明確に描かれていた。いやはや、これが道迷いの原因か。とはいえ、地図のせいにするのは余りに都合がよすぎるし、流石にそれはないだろう。帰宅後に改めてモニター上に拡大して見る。と、私の地図にも辛うじて描かれているではないか。お亀岩を表す点の中でピークを表す円がとじられている。いやはや。しかし、何ともわかりにくい。それに、やはりこの描かれ方では地形的にも実際と照らし合わせるのは難しい。だからあれだけ沢山の足跡が彷徨っていたのだろう。さて、もう一方の分岐点について。嫁のものには「地蔵ノ頭」と明記されているのに、私のものにはない。名前がついていない分岐ならば大した地形的特徴を持っていないのだろうと思っても仕方がないと思うのだが。地図というものが出版年の違いでこうも変わるとは思ってもみなかった。

しかし、いずれにせよ、絶対的な情報である天狗峠と天狗塚がどれなのか明確にあって全体像をイメージできていれば、位置関係や距離感からポイントを見誤ることはなかったであろう。登るつもりがなかったので、それらの情報を事前に確認することもなかった。それに、最新版の地図を用意していなかったのは大失敗であった。

 私が持っていた地図(2002年版 山と高原地図 四国剣山)

 嫁が持っていた地図(2004年版 山と高原地図 石鎚・四国剣山)

行きにとった写真であるが、真ん中にとんがった三角が天狗塚でその右手前が地蔵ノ頭、その右奥が天狗峠であった。地蔵ノ頭から斜め左方向へ続く稜線と並行する稜線が手前に見えるはずだが、そこが迷い込んだところ。分かりにくいが、途中、二股に分かれているように見えるその谷側が断崖となっていた。とにかく無事に帰ってこれてよかった。

いろんな条件が揃ってしまうと、道迷いはどうしても起こるのかもしれない。迷った時は来た道を引き返す。地図読みについてまた一つ勉強になった。百聞は一見に如かずである。色々あったが、兎にも角にも美しい景色を満喫し存分にリフレッシュできた。下山は想定していたより順調に5時間で済み、13時過ぎには光石登山口に着いた。何かと大変だった嫁も、これまでで一番楽しかったし三嶺は最高と言ってる。何よりである。

秋の山行

10月28日、かねてより憧れていた三嶺へ向かった。徳島と高知の間に連なる剣山系の一つで、思い入れを持ったファンが多いことで知られており、「みうね」が正式なようだが、高知では「さんれい」と親しみをもって呼ばれている。

一泊二日の行程。初めての今回は一日目、途中のさおりが原でテント泊して、二日目は様子を見つつ行けるところまで行って引き返す予定だ。昨年大変な目に遭った石鎚の裏参道のことがある。人によっては10時間ほどかけて日帰りするようだが、まあ、自分達には無理だろう。

高知県、旧物部村の最奥、久保の影という集落の先、西熊林道に登山口がある。さおりが原は、20年前の修行時代、研修先の農園へ援農に来られていたご夫婦に連れて来てもらった思い出の場所だ。当初は住み込みで働かせてもらっており、息抜きにとの心遣いであった。5月、静かな沢が流れ入る園地にバイケイソウの群落、立派な栃木。帰りには笹温泉に浸かって夢見心地であった。

我が家から登山口まで約100キロ、3時間弱。前日まで何の用意もできなかったので、朝起きてから、弁当を作り、荷造りを済ませて家を出たのが9時半。登り始めたのが12時半。さおりが原までは印に混乱して迷いやすいらしい。なるほど、どこでも通れそうな開けたところは足跡が道を作っておらずトレースすることができない。枝や幹に巻かれたテープもラインを描かず、こっちからもあっちからも行けるというように散在しており、分岐のポイントがわかりにくい。地図とコンパスを頼りに地形を確認しながら北の少し東寄りの方角を登ってゆく。

昼前に道中でパンを食べていたので、遅めの弁当タイムをとった。山仕様の卵焼きは、だし巻きではなく砂糖と薄口醤油で。太白ごま油を贅沢に使い、2人前を卵6個で作る。今回は海苔弁に。忍ばせた昆布と卵焼きとの相性が抜群であった。他は、芹と鰹節をソーセージを焼いた残り油でさっと火を通して醤油を和えたもの。

尾根に出た。どうやらさおりが原への分岐を過ぎてしまったようだ。尾根伝いに北東へ進路を変える。そのまま進むことにした。眼前、北に西熊山らしき頂と大タオらしき見事な笹原の稜線が見えた。あれがカンカケ谷でこれがフスベヨリ谷だろう。そして私たちの立つ尾根。いずれ本来予定していた道と合流するはずだ。

今思えば、散在しているように見えた印はつまり、九十九折りを細かすぎるくらいに案内していたのかもしれない。それで肝心の分岐も同様のそれと思い込んでしまったらしい。

15時が過ぎ、16時が過ぎ、まだ合流すべき尾根が見えない。気温が下がってきた。そろそろ、さおりが原は諦めるべきか、どこでテントを張るか探しながら進む。16時半、いよいよ今日はここまで。強さを増してきた風を避けられる場所を探す。窪地は平らでも湿気ているし、鹿のフンもそこここにある。そして枯れた立ち木の下を避けるとなると、なかなか見当たらない。風上でなければいいか。気温はぐんぐん下がってきた。山の様相は急激に変わるから恐ろしい。

ビバークではないが、当初の予定を外れて一泊することに。強い風が夜通し続いたが、幸いテントを張ったところは穏やかだった。ここは熊が棲む山域らしい。鹿の鳴き声も時折聞こえてくる。猪も間違いなくいるだろう。テント周りに細引きで境界をこしらえ、そこに熊鈴をぶら下げて呼子にする。効果があるかないかわからないけど、、、弱いなぁ、自分。かつての山に入る人ならば当然、我が身を守る術を持っていたであろうに。身についてないことのなんと深刻で痛恨なことか。40歳も過ぎて慌てて取り戻そうとしている。

熊の話を持ち出すと嫁が思った以上に嫌がった。「スマン、スマン。」「スマンでは、済まん!」

一晩中強風が尾根向こうで吹き荒び、嫁はほとんど寝られなかった様子。私は気づけは2時間とか1時間とか経っていたのが幸いだった。3シーズン用の寝袋だが防水透湿性のあるカバーを新調したことで暖かく寝ることができた。嫁は冬仕様のものだがそれだけでは寒かったようだ。

夜が明けてコーヒーを淹れ、お手製のパウンドケーキでひと心地。

「コーヒー入ったよー」嫁を呼ぼうとしたところ、転かして半減させてしまった。貴重な水、貴重な燃料、、、疲れてるな、自分。呆れて文句を言うでもなく、美味しいと慰めてくれた嫁に感謝。

テントを撤収し、パッキングしていざ出発。8時。三嶺までは無理でもカヤハゲの分岐を確認するところまでは行きたい。じきに陽が出るだろうと、防寒着をザックに仕舞い込み薄手の行動着になったものの、風が一向にやまない。テントを張った南側とは違い、進む尾根の北側は風がもろに当たる。これはキツいと思う間にも体温がどんどん奪われてゆく。嫁がもう引き返そうと言う。尚も先を進もうとする私に、この先風が止む保証はないのだからと更に訴える。ひとまずザックを降ろし、とにかく仕舞い込んだ防寒着を着直すことに。ニット帽を被りさらにフードで覆う。これでなんとかなりそうだが、その間、少し余裕を取り戻すことができた。テントの撤収作業で待たせていた間、私と嫁の保持している温みには幾分の差がすでに生まれていたことに思い至る。気づけば私自身だいぶん冷静な思考をを失うほど冷えは緊迫していた。吹き付ける風の強さはとてつもなかった。以前友人が、どこでそう思ったのか知らないけれど、手綱を握っているのは嫁、と言っていたのを思い出して苦笑いする。言い得て妙である。

初の三嶺は遠く叶わなかったが、かつてないほど広く美しい豊かな森を十分満喫することができた。

また来ると、嫁の背中が言ってる。

来た道を戻り、さおりが原への分岐を確認。20年ぶりの園は鹿避けの防護ネットが至る所に施され物々しい様相となっていた。倒木、立ち枯れ。よほどの嵐だったのか、砂礫が剥き出しとなっているところがそこ此処に。美しくも荒々しいかけがえのない山。コーヒーを淹れ直した。

また転かすなよー

再び嶺北の山へ

山登りについては、嫁の方が俄然モチベーションが高い。私は運転が好きではなく、叶うものなら自転車で登山口まで来たいくらい。なので、小一時間で行ける近場にお気にいりの山が増えたのは嬉しい。石鎚山にもまた行きたいし、三嶺にも行きたいけれど3時間近くかかってしまうのが億劫だ。

芽吹き始めた山の上。この日は風が強くて体温調節に何度も着たり脱いだりを繰り返した。

チョコレートにクランベリーとレーズン、くるみとひまわりの種がたっぷり入ったパウンドケーキはハイカロリーな山仕様。弁当は、かつて少年野球をしていた頃のチーム飯。お母さん達が毎度の献立に悩まないように考えられた、卵焼きとソーセージがあればオッケーというのを踏襲している。今回はそれにプラス、三つ葉とおジャコの炒め物。

 

 

メンテナンスの一日

出来ることなら週一でも休みをとって自転車とプール三昧の1日を過ごすしたい。根がストイックに出来ていないわたしはとどのつまり、そうでもしないと日々のストレッチすら億劫になってしまう。

ちなみに、ストイックという言葉を辞書で引いてみると、「禁欲的で感情に動かされず、苦楽を超越する様子(した人)」とある。だから私はストイックと言われることもあるけれど、とんでもない。世間ではそうでなくとも、毎朝決まった時間に起きて日々を規則的におくることが模範とされがちだ。しかし、現実的に感情の波はあるものだし、いろんな物事に対して疑問を持ったり悩んだり、考える質であれば余計にそうあることは難しい。波があるのは困りものだが、その振幅をうまいこと使えばそれなりになんとかなるのではないか。やるべき仕事からは逃げられない。やりたいことでリズムを作るのだ。

県道16号で峠を越えて高知市内まで往復4時間半ほど、間に小一時間泳いで6時間そこそこの行程をバロメーターとしている。これが日常的に難なくこなせるようでなければ、草を刈って運んで裁断しての土づくりや山仕事を続けることは出来ない。つまり、シビアで差し迫った問題なのだ。

自分にとっては結構キツい峠道なのに、存外多くの人がサイクリングを楽しんでいる。乗る人からすれば、なんということはない峠なのだろうか。

 

嶺北の山々

本格的な畑シーズンを迎える前に、山へ行くことにした。代掻き前の綺麗な汗見川を上へ上へと県境の峠まで。1時間ほどで登山口に着く。

花も新緑もまだだったが、静かで久しぶりに心が休まった。昼過ぎから登り始めたので、時間的に無理をせず、大森山で引き返すことに。前日まで丸太を運んだり割ったりしていたこともあって、心地よい疲労感に充分満足できた。山々を見渡す開放感、その中で弁当を食べる贅沢なひと時。長閑なところですねと言われるような中山間地で暮らしているのに、更に奥へまた登る。ただ歩くことに専念できるということ、ただ景色を楽しめることって、仕事や責任に追われる日常では中々叶わないものだ。

自分たちの暮らしがこの奥深き山々の中にある。頂から見渡せば、虫にたかられ汗にまみれる毎日をまた頑張ろうと思える。残した木々がいよいよ立派に映え、木漏れ日が射すようになるのは嬉しい。かけがえなき花鳥風月。

同じ集落の還暦を過ぎた農家さんが息子に跡を譲り、花のなる木を植えている。幸せのかたち。子を授からなかった私たちは、この地において一代で終いをつけることになる。けれど、それもまた人生ということで、私たちは私たちなりに楽しみを見出していきたいと思っている。

装備はいつもの一泊分。弁当作って非常食は手軽なクスクス。

道中、山の至る所に植林の大規模な皆伐が進んでいた。大胆過ぎやしないだろうかと心配になる。

気になっていたところを片付ける

腐食して取れたままになっていた風呂の焚き口と煙道の掃除口を修繕した。慣れない左官仕事。ひとつひとつ型枠を拵えて隙間を埋めてどうにかこうにか形になった。これで火の始末が丁寧に行えるし、薪の消費も最小限で済む。

隣家の火事が脳裏に焼き付いている。心身ともにまだ正常とは言えない。火事のあった夜中の1時頃になると決まって目が覚めたり、何かの物音に反応して寝られなくなったり、夢にみることもある。これでは身が持たないとわかっているけれど、寝ていても何かあればすぐ気が付くようにとも思うので割り切っている。人のふり見て我がふり直せではないが、お風呂にストーブ、私も日々暮らしの中で火を焚くので改めて気を付けなければと思う。

野良の2匹、ここ最近はチー坊が寝床を自分のだと主張して喧嘩になることもしばしばです。元来穏やかなQ太郎は困惑顔。そもそも我が家という餌場を教えてあげたのはQ太郎なのだけど、チー坊は自分もうさぎを獲れるようになったことで勢いづいてるのか。。とはいえ、確かにあかんタレなチー坊もそれなりにゴツくなってきました。嫁にひしと抱きつく肩周りがもうおっさんです。おいおい。しかし、寒波の間はご覧の通り。なんともかんとも。

家の改修

抜本的な工事が求められる我が家。土台や柱、壁や屋根もいずれ順を追って可能な限り総入れ替えしなければならない。今回は東の壁と足元。

覆われていたトタンを剥がすと思っていた以上に深刻な状態だ。屋内の壁にしみが出てきたり、草のツルが入ってきたりしたのも納得である。はじめにこの実態を知っていたらここで暮らそうと思えただろうか。ここで10年以上寝起きしていたことが、お伽話に思えてしまう。

開ければ開けるほど途方に暮れる。結局壁の大部分を剥がすことに。竹木舞に土壁は貴重ではあるけれど、それを復元する猶予はない。とにかくシロアリの進行と家の歪みを食い止めることが先なのだ。

荷重が集中している柱は根本が曲がっていて、骨組みが全方向に歪み波打っているのが素人目にもわかる。時折聞こえる軋みはまたひとつ変形が進んでいたということなのだろう。隙間だらけの障子一枚向こうは外、底冷えのする家に体力をすり減らされてきた感じがする。これまではなんでも勢いで来れたけれど、これからは無駄に消耗しないようにしたい。

我が家をはじめから見続けてくれている大工のお兄。仕事ぶりについつい見入ってしまう。なんでも一人でやってしまうのだ。

お兄の仕事に、ただただ脱帽。自分も自分の仕事を頑張らねばと思う。