立松和平氏の「恩寵の谷」という足尾銅山を舞台にした小説を読んで以来、念願だった旧別子銅山に行ってきました。
大川村から越える峠も本山町の汗見川を上っていく峠も通行止めになっていました。地図で位置関係を見れば別子は土佐町の隣の隣になるのですが、やはり深い山を越えるのは相当困難のようです。
自分たちが暮らしている四国山地がどんなところなのか、そして、かつてこの谷にあった人の営みは、、、
10年、20年で世の中は大きく変わる一方、記憶はいいかげんで、ともすれば都合のいいように書き換わってしまう。世間とはどういうものなのか、過去に学ばなければと強く思います。私が学生の頃はまだ、「自分探し」のためにフリーターをする話をよく聞きました。運送会社で働き、仕事を掛け持ちすればそれなりにまとまったお金が入るとか、機器メーカーの工場アルバイトの時給は結構いいから稼げるとか、いざとなればマグロ漁船に乗ればいいとか、資格を取って派遣社員というフリーランスになる、それがいけてるとか、そんな、バブルの余韻と就職氷河期の深刻さとが混濁し、現実を見えなくさせていました。本当にやりたい仕事を見つけて、身につけるべきを身につけ、積むべき経験を積めなければ、いつ路頭に迷うか分からないという不安と焦りが「自分探し」を過熱させていた部分はあったと思います。
しかし、ひとつひとつの選択のその結果がまだ出ておらずとてもふわふわしていました。後に派遣労働や貧困が社会問題となり、その実態を映したドキュメントを見て、とても他人事とは思えませんでした。就農資金を稼ぐために、工場の派遣バイトをしようかと思ったこともあったのです。
旧別子銅山は江戸時代の元禄の世に開坑されたそうです。何世代にも渡って鉱山で生きてきた人たちもいたでしょうし、路頭に迷い流れた果てに鉱夫にならざるをえなかった人もいたことでしょう。入口を少し登ったところに無縁仏のお墓がたくさんありました。
気の遠くなるほど積まれた石積みを見ていると、使う人と使われる人がいた残酷な事実に、なんとも言えない気持ちになります。しかし、それは形は変われど、今も確かにあるのではないでしょうか。
だからこそ、自分の意志で決められる事があるなら、どちらか選択する余地が残されているなら、与えられた価値観を見直し、信念を持って自分の人生を切り開きたい。私は選挙にはもちろん行きますが、選挙活動やデモに参加することだけが唯一の政治参加とは思っていません。むしろ、何を仕事にして生きるのか、日々の消費行動において何を選択するのか、徹底できなくてもひとりひとりが譲れないところをもつことだと考えています。
どことなく硫黄の匂いがし、岩肌が酸化鉄らしい色をしています。この谷沿いに多くの人が暮らしていたんですね。