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収穫はじまりました

種蒔から2ヶ月経ちました。小蕪の間引き菜、山東菜、レタスミックスです。追って大根の間引き菜もはじまります。

緊急事態の今、我が家では仕事の整理をしています。出荷部屋の模様替え、倉庫の整理、工房も畑もより丁寧に落ち着いて仕事ができるように整えなおそうとしています。新しい展開を模索しなければとは思っていません。これまでやりたくてもやれていなかったことをしています。

私が大事にしている言葉は

「人間の徳は その異常な努力によってではなく その日常的な行為によって測定されるべきものである」(パスカル)です。

最後に引いたおみくじに書かれていたのですが、それがどの言葉よりも常に自分に言い聞かせたい言葉だったので座右の銘にしました。若さに任せた力業や人並外れた技量を誇るのではなく、当たり前の積み重ねがいかに大切でそれを続けられるようにすることがいかに大変か。大きな出来事によって気付かされ、人生を転換させることもあると思いますが、自分の進むべき道は平時にこそ見出されるべきではないかと思います。

Q太郎が友達(弟?)を連れてくるようになりました。まだまだちっちゃくて、軽やかに飛び跳ねます。警戒心が抜けず微妙な距離を保っていますが、それくらいが丁度いいのかも。ちー坊と呼んでます。

4月中旬、雪が降りました

今朝は寒くて目が覚めました。向こうの山は雪、こちらは冷たい雨が降っています。昨日は霜が降りました。芽が出たばかりのじゃがいもは草の中で霜に当たらず無事でした。

今はとにかく種を播き、水を遣る毎日です。収穫に至るまで少なくとも3ヶ月かかります。いく農園の端境期は4月。自分たちの暮らしでは一年を通して野菜をほとんど買わなくなり、この時期は売り物にはならないけれど畑に残っている菜花や春菊、人参などを食べています。蕗やセリ、ワラビなどの山菜を採って季節を楽しむこともありますが、基本は売り物として、いいものが安定して採れるよう手入れを続けています。誤って踏んでしまったり、周りの草と一緒に刈ってしまわないようにするにはやはり、場所を定めてそれ相応の手入れが必要です。タラの芽も食べたいのを我慢して残しています。

Q太郎はとても自立していて、精力的に出かけて行きます。ご飯が欲しい時の声が特徴的なのでわかるようになって来ました。育ち盛りなのでしっかり食べて強くなって貰いたいものです。あげるときはもっぱら生の鶏ガラをぶつ切りに。魚のアラがたまの御馳走です。ないときはない。今晩は雨の中ネズミを獲って来たようです。

 

椎茸の駒打ちをしました

地域の方から浅木を伐ったから薪にしないかと声をかけて頂きました。今は種蒔シーズン真っ盛りなので断るべきかとも思ったのですが、一日一車分ずつ、ごとごと採りに行かせてもらうことにしました。実際、我が家で伐れる分は残すところ10年分もないので、不安に思っていたところでした。

現場は車で10分ほどの山。道の上斜面だったので助かりました。人の山なのでどこまで片付けておくべきか難しいところです。50センチほどに玉切りして持ち帰り、できるだけ雨のかからない置き場を確保します。木によって乾いてからでは極端に割りにくくなるので、できるだけ割ってから。とても甘い香りのする木、ちょっと臭いもの、いろいろです。中にくぬぎがあり、時期的には遅めですが椎茸の駒打ちをすることにしました。800コマ打ってまだありましたが、きりがないので終いにしました。

これまで3往復しましたが、もう3回分くらいありそうです。感謝!しかし、畑仕事の時間が。

種まきがはじまりました

山仕事がひと段落したあとは、家の雨樋を修繕したり、水道管の割れたのを修理したり、後伸ばしにして来たことを片付け、ようやく種まきがスタートしました。

水道管は壁の中で割れており、どこに配管されているのかタガネではつって探し出すところから。パイプをある程度露出させないと継げないのでかなり壁を壊すことになりました。台所の水道管も蛇口の元が割れてしまい、これも壁を壊しての応急処置となりました。いろんなところが老朽してギリギリです。

 

それから、ひとつ嬉しいニュースが。

 

我が家からある日突然、ビー助が居なくなって寂しい思いをしていたのですが、春になってQ太郎がやって来ました。これまで時々、土間を物色しているところに出くわすものの、なかなか距離が縮まらなかったのですが、ある日近くの水路のあたりで何処か弱々しく泣く声が聞こえて来たので声をかけてみると、何か通じたのか急に向こうから近づいて来て打ち解けてしまったのです。なので、名前はQ太郎にしました。手足やお腹などに傷があり、身体も汚れていましたが、タオルで拭いてやり、日に日にきれいになってこちらも驚くほど顔つきも柔らかく変わりました。模様は違いますが、とてもビー助に顔も雰囲気も似ているので、きっとQ太郎はビー助の息子に違いないと考えています。さすが野生児、鳥を獲るだけでなく先日はウサギを仕留めて来ました。

支障木の伐採

畑の南東を遮ってきた大物を厄年の前に伐ることにしました。3年前の伐採は畑を挟んで西側になり、この一本が片づけばまた一歩大きく前進できることになります。

農業と共にある暮らしの中、両側ともかつては竹など生やしてはおらず、杉ひのきの植林は持ち主がそこでの暮らしをやめる最期に植えたそうです。

植林するのは時代の流れだったのでしょう。しかし、さらに時代は移り、もはや不利地では業者に頼んでも伐採してもらえず、近在の主立った製材所では直径40センチを超える木は機械に通らないからと断られ、チップ工場にしか引き取ってもらえないようになりました。引き取った業者はいいものを選って他へ転売しているらしいというのが、もっぱらの噂です。

粗悪な木ばかりとなれば、集成材にするしかないというのも道理ですし、建築現場からしても一本一本クセを見極めるような数値化できない技量を要する仕事よりも、狂いのでないことを前提とした画一的な建材に移行することもまた道理です。

抗うことのできない時代の流れ。かつて木材は割って製材するが故に節がないよう枝打ちを入念にしておく必要がありました。動力による鋸引きが可能になると節に関わらず製材できるようになり、手間のかかる枝打ちは自然遠のきました。枝が混み合えば枯れる枝が出ます。それは死節となり、材にしたとき抜け落ちて穴となります。安価に量産する流れの中では良材を生産するための地道な仕事は当面の利益にはなりません。間伐や下草を刈るよりも植えることが優先され、今や腐れや虫食いの入った間伐しても手遅れな山ばかりなのです。間伐して意味があるのはそれまでも生育に応じて手入れを続けて来た山だけで、それは今になって間伐があまり言われなくなり、皆伐(かいばつ)が推進されていることからも分かるはずなのですが、山仕事を実際にはしない山主にはなかなか伝わらないようです。

子や孫に財産を残したいという持ち主の思い。その場つなぎとして住むことを許されている私達。伐採の許可を得ることもなかなか難しいのです。

日常の平穏を享受する為、家や畑の周り、それぞれを少しずつ伐っては片付けて更に伐り進めるの繰り返しです。10年以上経ってここも気がつけば陽が差し込むようになりました。来年の厄年を避けるとなれば3年後かと考えたのですが、これまで幾度となく見上げては伐れると思えるその時を待ち続けさらに3年も足踏みするのはもどかしく、気力体力ともに今ならと思えたので伐ることにしたのです。とはいえ、それから倒す道を開くのに3日かかりました。安全に倒すためにはかかり木にならないことが第一。そして、足元を整えておくこと。手間はかかっても十分に片付けておく必要があります。ちょっとした枝が命取りとなるのです。

(写真上、奥の木を倒すため手前に向けて道が開けたところ。左が谷側、右が山側。)

枝にかかるだけならまだしも、幹と幹の間にがっちり挟まってどうしようにも倒れないという状態はもっとも避けたいので、谷側を十分に空いておきました。現場は地域の人が時折通る道のすぐ上斜面にあります。伐倒したのちは少なくとも次の冬までそのまま、不意に動いて事故が起こらないよう後の作業性も考えて念には念を入れておきます。急斜面の山の中、玉切りにしたものは一度転げ出すと止めることはできず、民家の屋根に直撃するという最悪の事態も十分考えられます。立ち木を一列残し、切り落した枝葉の向きも揃えてできるだけ水平に道を作り、切り株を生かし安定させます。日も暮れ、本番は翌日に持ち越しとなりました。

さて、いよいよ明日伐ると決めたもののなかなか寝付けません。これまで繰り返し読んできた手引書と、新たに手に入れたより詳細な本を読みながら、改めて気をつけるべきところを整理し、見落としがないか復習しました。

抜根直径は65センチ以上、これまでで最も太い木でした。枝が片側に偏っており、倒す方向の斜め反対、谷側に重心があったので、コントロールを失えば人が通る道の上ないしはゆずの畑、お墓の方へ倒れることになってしまいます。慎重に楔で重心を中心へ起こしつつ倒す方向に傾けていかなければなりません。今回も牽引具を使わなかったこともあり、楔を打ち込むのが大変でした。打ち込む先から相当な重量によって追い口に減り込み、半分それ以上打ち込んでも全く傾きが変わっていないとなったときは経験したことのない量感に恐ろしさがこみ上げてきました。やはり集落の中ということがリスクを高めています。今一度、気を落ち着け、山側、真ん中、谷側と3つある楔のうち、真ん中を打ち込んで軽くしてから谷側を打ち込み、山側は他の2つに追いつく程度に打ち込むことを何度も繰り返しました。受け口の深さは木の直径の3分の1で20センチほど、念入りに整え芯抜きをし、ツルの幅と高さは必要十分となるよう気を付けていました。腐れは無く、風は微風。焦る必要はないはずです。手鋸で追い口を再調整し、僅かづつでも打ち進め、ツルの裂け具合を確認し、最後まで冷静に作業を進めることができました。伐り倒して枝を払って片付けるのに丸一日費やしました。

改めて伐り口を見ると、芯抜きが不十分で追い口が浅かったのがわかります。やはり40センチほど深く入れてはじめから谷側に角度をつけておくべきでした。そして、今回のような偏重木の場合はその偏りを起こす方向に牽引すればより確実に作業を進めることができる、つまり牽引すべき方向が自分の中で明確になりました。牽引力で倒そうとするのではなく、あくまで楔を使って木の自重で倒れるようにすることが基本だろうと考えています。

牽引することで重心を起こせるのは幹がしなるから。楔によって起こせるのは、局部が簡単には裂けたり引千切れたりしない粘りがあるから、、、伐る手順の一つ一つがどのように作用しているのか、自分の身体を木に見立て、3つの楔それぞれによって押し上げられる圧力とその反応をイメージするようになったのは最近です。そうすることでより立体的に捉えやすくなりました。危険をともない技量を要する仕事。これまでの経験を何度も振り返り、何故そうなったのか、どういう予想外の動きをしたのか自分の頭で必死に考えるしかなく、山仕事の間はそれに全精力かけることになります。畑仕事も工房仕事もストップしてしまいますが、それでも仕方がないと考えています。

こういった山仕事を続けていますが、しないで済むような条件のいい土地であったらとは思わないのが我ながら不思議なくらいです。土地にはそれぞれの問題があり、新規に就農する場合、根を下ろすのは農地が先か家が先か、多くの場合、農地はひとまず借りれたものの家が伴わず離れた別の地域にあったり、心血を注いできても返さなければならなくなったり、少なからず営農や栽培技術以前の問題に悩まされると思います。私はそういったことを経ていつの頃からか、林業に限らず農業も一代でどうこうなるものではないと思うようになりました。ここと決めた場所を少しでも良くして、その恩恵を日常に得られるならそれで十分なのかも知れません。ただ、その望みでさえ、こうして何の保証もない危険を犯さなければ叶わない。そして、地域が許容してくれるのはどこまでなのか。生きようと思えばどうしても波風を立ててしまうのです。

連日の山仕事をこなせたのも、一昨年よりはじめたトレーニングの成果です。休むのも仕事のうちというところでしょうか。

後から知ったのですが、今年が本厄でした。数え年ということをぬかっていました。無事に終わってよかったです。

山の手入れ

3年前に伐り倒した木が大方片付きました。すべて薪として自家消費しましたが、思っていたより早くなくなりました。

(2017年冬)

一年間で一体どれ程の薪を必要とするのか。直径が20センチ足らずのものから50センチを超えるものまでいろいろなので、本来ならば立方メートルでその量を把握すると思いますが、私を含めて一般的にはイメージしづらいものです。何本くらい?とよく質問されるものの、正直なところなんとなくの量感でこれくらいあれば少なくとも一年は持つかなという感じだったり、伐り倒してから薪にするまでの労力を想像して、これ以上は無理だろうというところでやめる感じでした。

とにかく出来るだけ若いうちに借りている山林のスギ檜を片付けて浅木を育てていく。それは効率的な薪の自給が目的でもありますが、地滑り対策としての自助努力でもあります。嵩高くなく根張りの強い植生にすること。とはいえ、浅木の成長が伐り進めるペースに追いついているか、結局のところどうすることが正解なのかはわからないので不安は残ります。伐り過ぎたかと思うこともありますが、他の伐採現場や山の全体から考えれば僅かなものだと自分を安心させています。

今回は30本ほどで4日間、牽引具を使わずに済んだので、比較的スムーズに作業が進みました。久しぶりとはいえやはり緊張しますし、体力を持っていかれる仕事です。大径木となると、倒れるときの衝撃は凄まじいものがあり、動きをしっかり確認しようとは思うものの、それだけに集中することはなかなかできないものです。70年という育つのに費やした歳月や植えた人のことを思うと、ただ薪にしてしまうことに申し訳なさはどうしても残ってしまいます。手探りで自問自答しながらです。

こちらは5年ほど前から伐りはじめた竹藪ですが、大ぶん朽ちてきて焚きつけには丁度いい感じになってきました。

孟宗竹なので太いです。これが生の時の重たいこと、滑ることと言ったら。

家のこと〜その4〜雑誌掲載のお知らせ

農業共済新聞(2019,3,20)に寄稿させて頂きました。

今回は、新規就農から10年という節目から「新規就農者と地域の関わり方」「就農者の計画の立て方」「今必要な就農者支援」などのテーマを頂きました。

これまでIKU FARM journal に連載してきました「家のこと」のまとめとなります。「不動産相続における名義変更の義務を法的に定めること」は現実的には難しいことだと思います。しかし、何が新規就農を難しくさせているのかといえば、むしろ本人の努力ではどうにもならない事のように思うので敢えて書きました。

解決したわけではありませんが、これでようやく気持ちに区切りが付けます。

 

家のこと〜その3〜

倒壊の恐れがでているわが家は、土台が折れそうにたわんで敷居が沈み、ガラス戸が倒れてきそうになったり、ひとりでに軋む音がかなり頻繁に聞こえてきたり、いよいよ安心して暮らせる状態ではなくなってきました。この梅雨と夏を越せるのか。当面、取り壊して建て直すことが無理とわかった以上、部分的にでも手を入れて暮らすしかないので、兎にも角にも大工さんにお願いすることにしました。

話は前後しますが、貸主と新たに結び直す契約については、3月末に司法書士事務所から案が届いたのですが、気になる箇所が幾つかあり、以前法務局でお世話になった弁護士さんに相談に行きました。そうしたところ、こちらが思っていた以上に、効力の限られた気休め程度のものだということがわかりました。貸主が当該物件の登記名義人ではないとはどういうことか、本件の場合はつまり等しく権利を持った家主が三人いて、そのうちの一人としか私たちは契約できていなかったということです。暮らして5年ほど経ってからその事実を知り、では、どうすればいいか、今年3月の話し合いにおいて、貸主が依頼した司法書士からではありましたが、他の権利者から発生する問題については貸主においてすべて解決すること、その責任を契約書に明記するという案が出され、それでこちらも安心したのです。しかし、では解決できなかった場合どうなるのか、否応なく出て行かなければならないという事態にはならないのか。私たちの暮らしは保証されるのか。

法的にその条文はほとんど意味をなさず、他の権利者に対して効力を持たないことに変わりはないということでした。

残る家主の二人もまた賃貸人として署名された契約書でなければ、その他の内容を如何に詰めても意味がないということ。「それはわかっているけれど出来ない」と改めて言われてしまっては唖然とするしかなく、そもそも確約するつもりのない貸主の便宜的な形だけの契約だったということになってしまうのですが、貸主にしてみれば法的に問われない責任を負う理由はないということはわかります。いずれにせよ、道義的責任や信頼関係云々の話ではなかった、、、いや、それは違うのかもしれません。人から借りた家と土地で一生暮らしたいということそのものが、こちら都合の安易な望みだったのかもしれず、売ることはできないと言われた時点で諦めるべきだったのかもしれないのです。ただ、こちらも50年という契約期間が結ばれたからこそ、10年という歳月、人生の中で限りある30代の体力の全てを注ぎ、放棄された家と土地をここまでにしてきました。そうでなければ今頃、家は既に倒壊し、裏山も農地もどうなっていたか、足を踏み入れる事すら困難な取り返しのつかない状況になっていたはずなのです。しかし、それを相手に問うことはできません。そうではなく、ただただ、こちらとしては、もはや、その歳月を取り戻すことはできず、別天地を求めるとなれば今の状態に積み直すだけも何歳になってしまうのか。そのことを相手に理解してもらうしかないのです。

お互い様であることを前提に感情的にならず話し合いを続けていくこと。少しでも意味のある契約にするには、まだまだ時間がかかりそうです。

柱の根元も土台も、そのほとんどが朽ち、開ければあけるほど事の深刻さがわかってきました。思っていた以上にシロアリが進行し、9年前は芯が残っていると判断された土台がすでに材としての強度を失っていました。柱の上部まで進み梁に達しそうなものもありました。本当に今のタイミングを逃していれば手遅れになっていたかもしれません。つまり、取り壊すしかないという状況からぎりぎりの処で脱したのです。

 

 

当初の話では、囲炉裏があった6畳間の土台と柱の根元を挿げ替えて床を板に張り替える予定でしたが、玄関の4畳間も総入れ替えする大掛かりなものとなりました。今後、できるだけ早く足下の全てを入れ替える必要がありそうです。五右衛門風呂と土間の水回りの工事も必要です。

工事は重要となる二つの柱のうちの一つから。言われて初めて気付く事ばかりですが、この家は大きく南につんのめるように傾いた上に北西が深く沈んでいます。ジャッキアップしてその傾きを少しでも補正しつつ高さを決めていくのですが、多方向に歪み、捻れ、倒れようとしている物を押し戻すことに限界がある事は想像に難くありません。とてつもない重量を感じます。

囲炉裏をどうするか。吹き抜けの天井に薪火の暮らしでなければ、かえって虫の温床になっているようだったので、思い切って撤去することにしました。石が積まれ灰混じりの土と接していた土台はやはりボソボソに。床下の風通しも悪く、湿気を呼ぶ格好となっていました。

もう一方の柱は偏りすぎた荷重によって潰れるように根元が曲がっていました。挿げ替えることになりましたが、その基礎となる石の下にアリの巣が見つかりました。できるだけ堀上げて、土を焼いて戻し、小石等も拾い集めてきてしょうれんで突きかため、木槌でたたき直しました。

 


朽ちるに任せるつもりだったところを貸してあげているという貸主と、そこで身を立てるためにお金には換算できない労力と人生をかけているこちらのとの立場の違いは、如何ともしがたいものかもしれません。しかし、こうしてフタを開ければ開けるほど問題が噴出するような、普通なら断る厄介な仕事を、私たちが用意できるお金では本来なら足りないことを承知の上で引き受けてくれた、友人の気持ちとその真剣な仕事をけして無駄にはしたくありません。

 

 

 

 

(その4につづく)

 

家のこと〜その2〜

古民家は暮らしを見直す上で多くのことを教えてくれます。日々、薪火を使い煙を立てることの必要性、澱みがなく家の隅々まで風が通り抜ける清々しさ、畑仕事や山仕事を存分にするために不可欠な土間、そして畳のありがたさ。しかし、築年数からして、ようよう建っているものが殆どで、手を入れれば更に何十年も住めるというような物件は稀ではないでしょうか。とりあえずはよくても、将来のことを考えればかえって重荷になることもしばしばだと思います。土地の湿気は否応もなく影響し、年間降水量3000ミリを超える高知の更に植林に覆われた山間部においては望むべくもないことだったのかもしれません。

暮らしに不可欠な水をどう引いてくるか、山間部では谷に沿って、もしくは水が湧き出す処に家が建っています。つまり家を朽ちさせる湿気の上にしか山の暮らしは成り立たず、更に元を辿れば、地滑りによって生まれた平らな土地から棚田は発達し、集落が形成されたという見解もあるように、豊富な水脈と脆弱な地盤という、人を生かしもすれば殺しもする大いなる矛盾の中に山の暮らしはあります。地滑り対策のために水抜き工事が至る所に施され、その一方で生活水が枯渇していく、というのは分かりやすい例ではないでしょうか。

私たちは築百年をこえる古民家を借りて暮らしています。中山間地にはよくある事だと思いますが、裏山にはこの家のお墓があり、また、土地と建物の登記名義人が貸主本人ではなく遺産分割されていない物件です。当初用意された契約書は簡易なもので一年更新となっていました。血縁の無い土地で新規に就農し、身を立てて行こうとする私としては心許なく、サインを保留したまま一年過ごし、2010年、改めて長期の契約を結んで頂くようお願いしました。そして、契約の対象となる建物、土地、その地番の明記をお願いしました。農業を生業とし、ここで一生暮らしていきたいという思い、そして長期の確約がなければ、こちらの負担で行う家の修繕や工房への改築、土地の手入れに本腰を入れることができないという事情をお話しし、改めて50年の賃貸借契約を結んで頂いたのです。家はその都度修繕すれば暮らせるという前提の話でした。

ところが、暮らして8年ほど経った頃から白アリの被害が目に見えて進行し、大工さんに見てもらったところ、もはや修繕でどうにかするレベルではなく、今後10年を待たず倒壊の恐れも出てくると言われたのでした。何故ここへ来てとは思いますが、暮らすことを決めなければ何も始まらなかったので、どう仕様もなかったとも思います。とにかく、敷地内のいずれの建物も50年の間に倒壊するとなれば、取り壊して建てなおすしか、私たちがここで暮らし続けることは叶いません。貸し主に相談しました。昨年末のことです。

まず、貸主において修繕および取り壊し費用を負担することは無理ということでした。私たちは法務局に問い合わせ、弁護士相談に行きました。そして土地建物の賃貸借契約について、改めて民法と借地借家法を調べました。何が決まっていて、何は協議するしかないのか、そこをまず明確にしたいと考えたからです。そして、今後建て替えるにしても先立つものがないので、公庫の融資を当たりました。

民法第六百六条 賃貸人は、賃貸物の使用及び収益に必要な修繕をする義務を負う。

民法第六百八条 賃借人は、賃借物について賃貸人の負担に属する必要費を支出したときは、賃貸人に対し、直ちにその償還を求めることが出来る。

民法第六百十一条 賃借物の一部が賃借人の過失によらないで滅失したときは、賃借人は、滅失した部分の割合に応じて、賃料の減額を請求することが出来る。

前項の場合において、残存する部分のみでは賃借人が賃借をした目的を達することができないときは、賃借人は、契約の解除をすることができる。

法律によって規定されている義務や権利、想定されている状況というのはやはり限定的で、協議の前提としてうまく機能しそうなものは見つかりませんでした。上記の各条文についても、ない袖は振れないと言われてしまうとどうしようもなく、といって、こちらに契約を解除する権利があってもその意志がないので、意味をなしません。倒壊する恐れがある建物の取り壊し及び適切な処理を、所有者の義務として、法律で規定されていない以上、賃貸借契約を履行する義務において、取り壊しを求めることはできません。調べれば調べるほど、お互いが権利を主張することは協議に繋がらないとしか思えず、展望を見出すことが出来ませんでした。蔵や長屋に残され、朽ちるにまかされていた家財道具の処分についても、

民法第二百四十二条「不動産の所有者は、その不動産に従として付合した物の所有権を取得する。ただし、権原によってその物を附属させた他人の権利を妨げない。

といって処分をなお求めたとしても、いい結果を生むとはやはり思えません。法律とはどのように活用すべきものなのか、まったく不慣れなところですが、ただ、今回の問題が生じたとき、一方的に私たちが出て行くしかないとはならず、話し合いの余地を持てたことはひとつ、法律に拠るところが大きいでしょう。そこを踏まえた上でも、冷静に話を進めるためには、まず私自身が初心にかえり気持ちを整理することが必要だと思いました。以前、「移住について」の項で述べましたが、骨身を削り、 犠牲を払い、何代にも渡ってこの土地を形作ってきた地の人に対して、わたしはその恩恵に預かってはじめて一歩を踏み出すことができたよそ者に過ぎ ないということ。それをわきま えていなければ大きな間違いをしてしまうでしょう。

貸主にとって、私に家と土地を貸すとはどういうことだったのか。いつ居なくなるとも知れぬよそ者に対して覚悟を問う周囲はさておき、貸す当事者としてはむしろ、適当なところで契約が消滅することを期待するものではないかと思います。収益を得るためではなく、受け継ぐ者としての責任と負担を少しでも軽くせんがために貸すのでしょうから、厳密な契約を結び更なる責任問題を抱えることについて、こちらが先方に主体性を期待することはできないでしょう。とはいえ、同意のもと生活基盤をここに定めてきたこちらとしては、今更どこか他所へ移ることは現実的に不可能であり、曖昧なままではにっちもさっちも行かず、やはり、話を詰めなければなりません。貸してあげる貸して頂くという一方的な関係ではなく、契約においては対等であり、一対一の個としてはお互い様であり、感謝しあえる関係性を築くことができなければ協議は進まないと思うのですが、しかし、こちらから対等などというのは無理があり、ただ、相手の善意に頼るしかないというのが実情です。

一方、融資については、農業者向けの資金を当ったところ、その応募資格として認定農業者でなくてはならないという条件があり、役場へ申請に行きました。その要項には目標とすべき作付面積と農業所得が規定されており、更にいうと、農地を借りている場合は利用権の設定が必要となり、その契約を結ぶためには地権者すべての印、つまり、土地の名義変更がされていない場合は相続人すべての印をとってこなければならないということでした。名義変更を法的に義務付けることすらできない混沌とした現状で、個人が地権者すべての印を取るということは無茶な話です。

結果から言いますと、融資を断念することにしました。これまで私たちは、如何に農業経営を成り立たせるか、周りの多くが農業では食べていけないと言う中、慣例を見直すことで展望を見出そうとしてきました。経営を圧迫する高価な農業機械やビニールハウス、資材を使わない、土壌汚染や病害、食品としての安全性など慣行が抱える根本的な問題から脱するための不耕起・無肥料栽培、価格競争から抜け出すため、量産することを目的としない商品づくりなど、より持続可能な方向を模索してきました。認定を受けるために改めるよう求められた作付け面積や農業所得は一見すると常識的に映るかもしれません。しかし、私たちの経営でその規定をクリアーするには、まず夫婦二人では人手が足りず、人を雇えばそのため桁違いに作って売りさばかなければならず、栽培方法も商品も変えなければならなくなるでしょう。これまでの経験と今後の状況を踏まえた上で、人手を確保できなければまわらない経営をするのは危険と考え、作付け面積を必要最小限にして農地を集約し、規模拡大を目指さないという方向を定めてきたのです。それを融資を受けるために覆し、どこの誰が決めたともわからない数字を達成するよう逐一指示されるとなれば、更なる借金を抱えることになり、これまで積み上げてきた農業経営は骨抜きにされ、私たちの人生は一体なんだったのかわからなくなるという悲惨な結末しか見えません。そもそも経営について指導を乞うたつもりはないのです。融資という言葉でわからなくなっていましたが、つまりは債務を抱えることであり、無理な負債は身の自由を奪うということだったのです。枠にはまらず、己の道を貫くとはどういうことなのか、お恥ずかしい話ですが意外なところで気付かされました。そして、ここが踏ん張りどころ、頑張ろうという気持ちが湧いてきました。こういった思いもよらない展開や身を以て知ることが面白いと感じる自分がいることは驚きでした。なお補足ながら、住宅ローンの方向から調べてみても、借地上に建てる場合、土地の名義変更がされていない場合は融資を受けることはいずれにしても難しいということでした。

2月28日、貸主と改めて話し合いました。契約の解除を打診されましたが断り、一対一で約二時間、静かにひとつひとつ双方の事情を踏まえ、こちらからは用意してきた答えを出し、改めてお願いし、それでもなお受け入れられなかったことも含めて概ね合意に至りました。土地の名義変更ができない理由も改めてお話し頂き、こちらも納得しました。その上で後々問題が起こらないよう、契約書を作りなおすことになりました。

土地の賃貸借契約を改めて結び、建物の取り壊しについては賃借人の負担において執り行うこと。新たな賃借料については、取り壊し費用をその累積差額により結果的に賄えるよう設定すること。残存する家財道具の処分を検討すること。貸主において司法書士に契約書の作成を依頼、その費用を負担し、三者で内容を協議することでまとまりました。

3月6日、嫁を連れ、司法書士事務所で契約内容をつめました。話を進めるうち、先方が今回のこともこれからについても誤摩化さずに向き合い、こちらの事情をしっかり受け止めてくださったことが分かり、改めて感謝の気持ちが湧いてきました。結果的には、要望の殆どを呑んで下さいました。これまで幾度となくお願いするも聞き入れて頂けなかったこと、曖昧なままで腰を据えかねていたことが、ようやく解決しそうです。手入れを続けてきた裏山、そして農地の陽当たりを左右する山林もまた新たに契約に加えて頂けました。お墓についても、こちらの都合で草刈りだけはさせて頂いていたのですが、今後どうするか聞かせて頂くことができました。よそ様のお墓ですが、日々の暮らしに内在するが故にどう向き合うべきか、私たちもまた模索せざるをえなかったのです。貸主の誠意を受け、こちららも改めて、そのご家族に対し誠意を持って向き合いたいと思うようになりました。何十年後になるか、この土地をお返しするとき、後腐れなく、片を付けてお返しできるようにしたいと決意を新たにしました。

契約書に盛り込む内容を詰めるとき、事前に弁護士相談をし、民法と借地借家法を調べておいたからこそ、指摘できたこともありました。作成する際には尚のこと、法律を充分に確認しておく必要を感じました。どうなるかわからない先のことを心配し過ぎと笑われる場面もありましたが、それでもやはり、叶えたいことがあるなら、押さえるべきことは押さえ、臆せず突き詰めるべきだと思います。感謝の気持ちを忘れず、今一度、気を引き締め直さなければと思っています。

(その3につづく)

 

 

 

 

 

 

 

農地の集約〜10年目の畑を手放す〜

年が明けて、決めたことを順次進めています。

先ずはじめは、隣町にある畑、約2反を返すこと。不耕起栽培においては年を重ねることでしか、肝心となる効果を期待することはできません。そして、かける年月をより効果あるものするには尚更、畑作りを入念にする必要があります。10年間そこに注いできた労力も思い入れも軽いものではなかったのですが、しかし一方で、先行きを考えれば条件的に問題があり、できるだけ早く手放さなければならないという矛盾を抱えてきました。畑の実力が作物の品質を決めるので、作付けする以上、全精力をかけるしかないわけです。今ではほんとうに穏やかないい畑になり、いよいよこれからというところでした。将来のことを考えて決めたことではありますが、その出来具合を見ると、やはり割り切れない思いは残ります。

独立当初は雨漏りのする町営住宅に住み、条件が悪くても声をかけてもらった土地から借り受けていきました。空き家も農地も限られていて贅沢を言える立場でもなかったからです。人家の庭のような土地を借りたこともありましたし、地代と維持費用を賄えなくなって返したビニールハウスもありました。経営の方向が定まっていなかった頃の話です。

土佐町に土地つきの家がようやく見つかり、町営住宅のあった街から農村集落へ。畑には片道20分かけて通うことになりました。永い年月空き家になり放棄された後の片付けや薮の伐採からはじまる新たな畑作り、消防団や地域の用事に手を取られるようになり、管理すべき土地を持て余すようになった頃から、断るべきを断り、いずれかを手放さなければ身が持たないと感じるようになりました。

そうして、依然、主軸とする畑を隣町の二つの集落に分かれてそれぞれ2反、隔年で栽培してきたところ、作年の春に一方の大半を猪に荒らされ、作付けをとりやめざるを得なくなったのです。暮らす集落以外に農地の担い手として複数の集落に属することの難しさ、今後の獣害対策を考えるにしても、農地を集約しなければ目処が立たないこともわかりました。急遽、家周りの畑を主軸に替えるため、刈り場から草を運ぶ軽トラを借金して買い、かねてより隔年から通年栽培へ試験を続けてきた結果にもある一定の自信を持てたので、ようやく手放す決心がついたのでした。この10年間にいろんな出来事があり、あらためて仕事について、進むべき方向について考えさせられました。家も土地も儘ならないものですが、住んで都と成すべく、今後も全力を傾けるでしょう。その上で満足な仕事ができるよう、経営規模をよりコンパクトにする方向に定まりました。

先日、地主さんにお伝えしたところ、快く了承して下さいました。これから順次草を刈って土地をならし、終いをつけて返します。何かを得るためには何かを捨 てなければならない。しみじみしますが、とても晴れ晴れした気持ちでもあります。これからは、管理すべき土地に追われることなく、じっくり畑仕事を楽しめ るようになるのですから。それに、振り出しに戻ったわけでもありません。家周りの畑もまた、じき10年を迎えるのです。

思えば新規就農してこのかた、いかにして本業の畑仕事に専念できる状況を作るか考えてきました。それは実務と同じくらい重要でエネルギーを要することでした。借りている家や土地のこと、地域との関係性において解決すべき問題は思いのほか多く、一朝一夕で片付くものではありませんでした。また経営方針についても、必要ならば幾度でも断り、進む道を明確にしなければ、今頃望まないところへ流され身動きが取れなくなっていたと思います。思いの外、心ここにあらずのオファーが多いことに悩まされました。世間が言うように、拘らず流れに身を任せれば思いもよらぬ運が開けるというようなことは、数々の出来事を経て、少なくとも鵜呑みにすべきではないとはっきり言えます。そもそも、その流れに実態はあるのか。確固たる意志もなく、誰も彼もが乗っかろうとして、本来そこに見出された核心を既に失なってはいないか。もしくは、お互いの足を引っ張る澱みになっていないか。やはり、続けるという事は大変で、いろんな問題を乗り越えなければならないわけですが、だからこそ、確かな積み重ねを感じられたとき、また進もうと思えるのかもしれません。

それからもう一つ、地域の寄合の席でお酒を飲むのをやめることにしました。返杯が果てしなく続く高知独特の慣習に呑まれ、これまで幾度も後悔してきましたが、身体が資本、40歳手前となってはこ れ以上、無為に擦り減らすわけにはいきません。日本酒を断ってビールで最後まで通したり、途中で抜けたり、お茶を挟んだり、いろいろ試行錯誤してきたのですが、 会計という役が付いて途中で抜ける事ができなくなったり、こちらから酌をして受けて廻らなければならなかったり、中途半端なことでは断れなくなったのです。年が 明け、小部落の人にまず伝えて協力をお願いしてきました。それでも、より大きい括りとなる部落の集まりや祭りとなれば、定着するまでその度に断り続けなけ ればならないとは思いますが、通すつもりです。これもまた結論を出すまで9年近くかかりました。しかし、晴れて結論が出たこと自体がよかったのです。