カテゴリー別アーカイブ: life

春のお祭り

荒神様と氏神様のお祭りがあり、わが家もいよいよ春を迎えました。

フキノトウを食べ、種蒔きも始まりました。

 

 

温海かぶの仕込と山仕事

IMG_4162

年明けより、温海かぶの収穫と仕込みを進めています。

仕込みばかりだと体が冷えきって腰痛が出たり、運動不足で寝れなくなったりするので、合間に裏山の手入れをしています。当初、植林や竹薮は家やお墓に覆い被さるように迫っていて、誤って倒せば直撃する難しい状況でしたが、6年かかって、そういった危険個所は何事もなく無事に、ではありませんでしたが、済みました。

今年は埋れていたお稲荷さんを明るくするためにそこを起点にするという大事なポイントがありました。倒す方向には、地滑り調査のポールやボーリングの穴、そして、残しておきたい楓や樫、椿、椎などの雑木があり、それらを避けるようにしなければならないので、難しいことに変わりありません。手引書を読みながらの独学、要所は一本一本ロープをかけ、滑車に通してウインチで引っ張り、楔を打って倒します。

IMG_4157

まず、侵食していた竹を伐って作業性に問題のないところに積むところから始めました。竹は嵩張り滑りやすく、枝で目を突きやすいので、考えなしに扱うと事故の原因になります。できるだけ長いままをロープで引っ張って運び、立ち木(竹)に挟まるように固定し、その上で作業ができるくらいがっちりと隙間なく積んでいきます。

ボーリングの周りには鉄のフレームが溶接されていて、際に生えている木(上写真の手前2本)を倒す時、楔を打つ斧が振れないので竹や細い木を積んで足場を作り、高い位置で伐り倒しました。最終的に一本、どうしても上に掛かる方向にしか倒せない木(下写真の中央)の場合は、その前にフレームに沿って数本倒して枕にし、その上に倒れるようにしました。

慣れてきた時が危ないと思いますが、基本となる受け口と追い口、そして木の重心を見極める精度を上げていくためには、ロープとウインチに頼りすぎると分からないままなので、今回、いけると思う木はできるだけ楔だけで倒すようにしました。

IMG_4168

一年、枝葉をつけたまま乾かし、順次、玉切りして割ります。それらの作業性と量を考えると、今期は終了です。

これまでやってきて危なかった事を考え合わせると、事故を起こす危険度が高いのは木が倒れるときよりもむしろ、その後の作業においての方だと感じています。急傾斜地で玉切りにする際に丸太が転がり落ちたり滑り落ちたりする危険。向きを考えず乱雑に倒してしまうとかさ高くなり、不安定な高所作業をせざるを得なくなったり、予想外の力が瞬間に跳ね上がったり。どこでどのような力が働きその状態になっているか把握できていないと、思わぬ事故に遭いかねません。谷に橋を架けるようには倒さないようにし、向きを出来るだけ揃え、下手な力がかかってるところはその都度、片を付けて安定を確保します。試行錯誤しながらなので、ひとりマイペースで進めています。

 

 

ある晴れの日

img_4107

妹が久しぶりに麦山へ遊びに来てくれました。

いく農園のイラストは彼女が描いたもので、嫁がデザインに落とし込んでいます。6歳年が離れているので、私が実家を出たときにはまだ小学校を卒業したばかりでしたが、いつの間にか社会人となり、もう三十路。遠く離れた土地で彼女の人生を歩んでいます。

人はそれぞれに背負うものがあり、課せられた制約の中で生きていると言えるのではないでしょうか。制約という言葉を改めて辞書で調べてみると、「物事の実現・成立に欠くことの出来ない条件」という思ってもみなかった語義がはじめにありました。先ず思い浮かぶであろう「妨げ」や「足かせ」のような意味の、「ある条件をつけて自由な・活動(成立)を妨げること」はその後。なるほど、考えてみれば自分にとっては辛いことでしかなかった症状・体質も、困った性格も、今の暮らしと仕事に至る原動力となってきました。それがなければ、健康を切望することもなかったでしょうし、性質を直すのではなく活かせる、自分なりの仕事を探し求める必要もなかったでしょう。そして、続けるためには、揺らぎようのない明確な理由が必要だということも日々感じています。人にとって、重く足かせのようにしか感じられないことが、実は自己実現のために欠くことのできない条件だということを先人は教えてくれているのかもしれません。

妹と次に会えるのはいつになるかわかりませんが、また楽しい食事をともに出来たらそれでいいと思います。

 

img_4097

「いろんなことがあるけれど、私は元気です。」

 

 

 

家のこと

img_4032

植林と竹薮で鬱蒼としていた裏山が大分明るくなってきました。小さい頃に住んでいた街は欅並木がきれいでドングリや落ち葉が敷き詰まる森のような公園がありました。それが原風景にあるので、裏山に欅が見つかったときは特に嬉しくなりました。楠もまた思い入れのある木なんです。

家の周りの環境を整えることは家を維持するためにも欠かすことのできない仕事です。しかし、これまで山に呑まれ雨漏りしていたこの家は、屋根を張り替えても痛みはすでに隅々まで進行していたようです。今回、障子戸の敷居が、指で押せば穴があくほどになり、簡単に剥げるので剥いでいくと、芯までスカスカ。完全にダメでした。日を改め、大工さんに床下を見てもらったところ、基礎が白アリに大方やられており、差し替えて修復できるレベルではないことがわかりました。もちろん、消毒が効くことも期待できません。

傷んだところを補修しつつ住んでいけたらと考えて、これまで自分たちなりの精一杯のお金をかけ、友達の大工さんの厚意に甘えてきましたが、もはや、いずれ建て替えることに腹を決めざるをえなくなったのです。家主さんともいずれ話し合いをしなければなりません。

せめてあと10年、15年、もってくれたらいいのですが。

 

 

img_3981

img_3992

移住について(書き直しました)

(8月上旬に投稿した内容を書き換え、改めて移住について加筆、修正しました。)

IMG_3843

骨を埋める覚悟

農家に定年はなく、だからこそ、老後どのように働き、暮らしを立てていくかは常に念頭にある課題です。農家の研修生としてこの土地に移り住んできたとき、地の人から「骨を埋める覚 悟」を問われました。それは農業をする上でも、田舎で生きていく上でも、前提として不可欠な覚悟だからでしょう。ここで最期まで自力で生きていく覚悟。集落の一人として当事者になる自覚。14年経った今でもその重みを自分に問い直します。

働 いても生活保護水準以下の暮らししか出来ないワーキングプアや老後破産が社会問題となりました。そういった社会背景と昨今の移住ブームやUターンは無関係 ではないと思います。補助事業が整えられ、今や、田舎に来れば取り敢えずの職と家にあり就くことが出来るかもしれません。しかし、そこに老後の展望や骨を埋める 覚悟はあるでしょうか。土地に根ざすという田舎の本質をもうやむやにしてハードルが下げられ、覚悟を問うこと自体がナンセンスとする空気さえ感じます。

移住事業で食べている人は諸手を上げて移住を歓迎し、「来る者拒まず、去る者追わず」と田舎の寛容さを唱うでしょう。しかし、実情は違うのではないでしょうか。「骨を埋める覚悟」がないなら来ないで欲しいという声を聞きますし、そもそも寛容には必ず条件がつくはずです。寄り合いの席で「移住者が数を増やし意見することになればおもしろくない」と聞かされたときは昨今の移民問題を思い出してゾッとしました。しかし、同時にそういうものかもしれないとも思ったのです。上記の「田舎暮らしに殺されない法」には共感する事も多く、 是非、移住事業に関わる方や田舎暮らしに興味のある方には読んで頂きたいと思いました。

ほとんどの移住者にとって「骨を埋める覚悟」は、自身に問うたこともなく思ってもみなかったことだと思います。私も当初は戸惑い、農家で修行していた6年間、答えは出ませんでした。それでも先ず根を降ろさ なければ始まらないと独立し、土地を借り、鍬を入れ土を作り、仕事のベースを作り、そして今後もここで暮らしていけるよう、集落に住む一人として責任と義務を負い、断るべきを断り、至らないことや失敗も含めて信頼関係を築いていく、そういったひとつひとつをフルパワーでしてきたところ、もはや、この先、他所に移ってまた一から同じ事をやり直す余分な体力も無駄にしていい年月もなく、自らそうする理由がなくなりました。ひとつひとつ組み立てていかなければ、 体力が衰える一方で必要なお金が増える将来、自力で生きていくことは叶わないからです。

「土地に根ざしてはじめて、地に足がつき、仕事にも暮らしにも本腰を入れることができる。」時を経て、心からそう思うようになりました。どこでもできる仕事ではなく、仕事も暮らしも地域の今後と同一線上にある場合、そこで暮らしを立てていけるかどうか、問題があっても単純にお金では解決できないからこそ、ひとりひとり地域の今後を自分のこととして真剣に向き合わざるを得なくなるのではないでしょうか。つまり核心は、そこに暮らすことが仮染めで覚悟あってのことでないなら、人はその土地に対して愛着は持てても、当事者意識や責任感は持ち得ないということです。都合が悪くなれば他所に行けばいいと片付け てしまうでしょう。だから私ははじめに覚悟を問われたのではないでしょうか。

美しいとされる田舎の景色を形作り維持しているのは何処かの誰かではなく、そこに暮らす人々であり、土地に根ざすという確固たる価値観です。骨身を削り、犠牲を払い、何代にも渡ってこの土地を守ってきた「地の人」に対して、わたしはその恩恵に預かってはじめて一歩を踏み出すことができた「よそ者」に過ぎないということ。山を削り石を積み上げ田畑と屋地を構える、その石一つも積んでいない、水を引いてきたわけでもない。崩れていたものを積み直し、詰まった水道を復旧したといっても、あくまでそれは土台あってのことです。それをわきま えていなければ大きな勘違いをしてしまうでしょう。

土地を耕すのではなく、ただ景色を美しいと眺め、街のような暮らしをするつもりで田舎に移住する、その先にあるのは、その美しい田舎ではなく、中身のない別荘地や観光地、郊外の住宅地ではないでしょうか。それ自体がダメだと言うのではありません、ただ、そうなってしまうと、農業も林業も成り立たない土地になってしまいます。

 

「移住者」

映画「祖谷物語ーおくのひとー」も衝撃的な作品でした。

観る人によって受け取り方は様々かもしれませんが、とても厳しい視線でリアルに描かれていると感じました。他所からやって来て、いずれいなくなる人間が「地域を救おう」と叫ぶことの空虚さ。何が本当に必要かを自分の頭で考えずお上に従った結果、何を得るでもなく大切なものを失う象徴的な場面。

人をカテゴライズして見ることは本来意味のないことだと思います。しかし、田舎においては「地の人」と「よそ者』という二者に分けられることは、ある意味、道理だからこそ、自身について、よそ者はよそ者である事をわきまえなければならない。矛盾しているようですが、それは仕方のないことでもあり当然のことでもあるように思います。

いつの頃からか、「よそ者」は「移住者」という言葉に書き換えらました。かつては少なくとも一人一人を認知した上で指していたものが、そうではなくなったように感じています。少し前のことになりますが、役場で呼ばれる際、別の移住者の名前で呼ばれたことがあります。うっかりであったとしても、その職員にとっては私もその名前の人も同じ移住者でしかないという現れではないかと思うのです。それに限らず、地域の集まりで普段あまり関わりのない人に「あそこに畑を借りてるね」「あそこに野菜を出してたね」と声をかけられたことがありますが、全く身に覚えのないことでした。このように私のことと別の移住者のことがごちゃ混ぜになり、もはや誰のことを言ってるのかわからなくなることもしばしばです。あまり大げさにとらえるべきではないと思いますが、「移住者」とカテゴライズされることで、全く別の人と混同され、身に覚えのないことを私がしたことになる。そんなことはこの土地に移り住んできた人が数えるくらいだった頃にはなかったことです。なぜ数字を競うように移住者を呼び込もうとするのか。それは移住者という無意味な定義付けを一層厄介なものにし要らぬ諍いを生むことにならないかと危惧してしまいます。

これまでのよそ者は、既存の職場に赴任してきた人であったり、農林業に就くためであったり、少なくとも地の人にとってもそのよそ者が何の為に来たのか分かりやすかったと思います。しかし、田舎の本質のありのままを反映したハードルが虚飾され下げられたことで、何の為に来たのか真意の分からないよそ者が急激に増え、名前も顔も覚えられないくらいに膨れ上がり、もはや「移住者」という新たな定義で一括りにして片付けるしかなくなったのではないでしょうか。

移住者の一人である私でも、その言動に違和感を覚えたり、話が通じないと感じたり、その膨らむ数にとまどっています。価値観やとらえ方は人それぞれという以前に、集落は血縁によって形作られたごくプライベートな空間です。移り住んできた私たちは、いわば、「離 れ」を間借りする下宿人として、敷地内の畑を耕させてもらっているようなもので、地域の成り立ちから、そ れが事実だと言えます。何の為にこの土地に来たのか。取り敢えずではなく真剣に自分の人生を掛けて来たのか。真面目に地域と向き合う気があるのか。今一度、「骨を埋める覚悟」を問うて欲しいと思いますし、移住者一人一人そのことを真摯に受け止めてほしい。ただ安い物件として都合がいいから来る、おためしで住む、田舎の住環境だけを求め仕事はノマドに他所でする。「土地に根ざさないこと」を土地に縛られない「自由」とし、客人としてもてなされることに安住して責任を負わず放浪することを旅とする。その土地土地の文化、地域社会に通底する価値観さえもが軽く見られ混沌とし始めていることに少なからぬ危機感を感じています。田舎 においては、そこに骨を埋める覚悟がないのなら、受けられない恩恵や厚意があると思うのです。

休み

IMG_3826

市内への出荷の帰り、海に寄ってきました。

ちゃぷんと浸かり、仰向けになって広い空をぼんやり見遣る。自分の息遣いと耳に当たる水の音しか聞こえない。人が本当に脱力出来る瞬間は水に浮かんでいるときくらいかもしれない。寝ているときでさえ常にどこか局部で支えなければならず、草取りでしゃがむときはなお更、なんて体は重たいんだと思う。ふと我に返り、沖に流されてないか居ない筈のサメが現れないか不安になってばしゃばしゃ浜に向かって逃げ泳ぐ。嫁が不安な目でこちらを見ている。そんなアホな一人遊びが僕にとっての休みです。

IMG_3838

休日といった休日はほとんどないけれど、日常の中に時々ほっとできる瞬間や何か他のことに熱中する時間を持つこと、休むことも仕事のうちだと改めて感じています。

IMG_3841

IMG_3739

IMG_3895

IMG_3839

畑のようす8月上旬

 

IMG_3849

7月から暑い日が続いています。夕立があったうちに白ネギの定植は無事終わりました。オクラやショウガ、ナス、ピーマン、万願寺とうがらしの畑の草取りも、朝飯前や日暮れ時に少しずつ進めてきので、草に埋もれず元気です。

ピクルスの仕込はキュウリに加えてオクラも始まりました。

炎天下を避けるようにしていますが、それでも暑いですね。

IMG_3856

IMG_3847

IMG_3852

IMG_3858 IMG_3861

 

 

 

 

旧別子銅山へ

IMG_3716

立松和平氏の「恩寵の谷」という足尾銅山を舞台にした小説を読んで以来、念願だった旧別子銅山に行ってきました。

大川村から越える峠も本山町の汗見川を上っていく峠も通行止めになっていました。地図で位置関係を見れば別子は土佐町の隣の隣になるのですが、やはり深い山を越えるのは相当困難のようです。

自分たちが暮らしている四国山地がどんなところなのか、そして、かつてこの谷にあった人の営みは、、、

10年、20年で世の中は大きく変わる一方、記憶はいいかげんで、ともすれば都合のいいように書き換わってしまう。世間とはどういうものなのか、過去に学ばなければと強く思います。私が学生の頃はまだ、「自分探し」のためにフリーターをする話をよく聞きました。運送会社で働き、がんばって仕事を掛け持ちすればそれなりにまとまったお金が入るとか、機器メーカーの工場アルバイトの時給は結構いいから稼げるとか、いざとなればマグロ漁船に乗ればいいとか、自ら選んで派遣社員というフリーランスになる、それがいけてるとか、そんな、バブルの余韻と就職氷河期の深刻さとが混濁し、現実を見えなくさせていました。本当にやりたい仕事を見つけて、身につけるべきを身につけ、積むべき経験を積めなければ、いつ路頭に迷うか分からないという不安と焦りが「自分探し」を過熱させていた部分はあったと思います。

しかし、ひとつひとつの選択のその結果がまだ出ておらずとてもふわふわしていました。後に派遣労働や貧困が社会問題となり、その実態を映したドキュメントを見て、とても他人事とは思えませんでした。ほんとうに、自分も工場派遣で就農資金を稼ごうかと思ったこともあったのです。

旧別子銅山は江戸時代の元禄の世に開坑されたそうです。何世代にも渡って鉱山で生きてきた人たちもいたでしょうし、路頭に迷い流れた果てに鉱夫にならざるをえなかった人もいたことでしょう。入口を少し登ったところに無縁仏のお墓がたくさんありました。

気の遠くなるほど積まれた石積みを見ていると、使う人と使われる人がいた残酷な事実に、なんとも言えない気持ちになります。しかし、それは形は変われど、今も確かにあるのではないでしょうか。

だからこそ、自分の意志で決められる事があるなら、どちらか選択する余地が残されているなら、与えられた価値観を見直し、信念を持って自分の人生を切り開きたい。私は選挙にはもちろん行きますが、選挙活動やデモに参加することだけが唯一の政治参加とは思っていません。むしろ、何を仕事にして生きるのか、日々の消費行動において何を選択するのか、徹底できなくてもひとりひとりが譲れないところをもつことだと考えています。

 

IMG_3758

どことなく硫黄の匂いがし、岩肌が酸化鉄らしい色をしています。この谷沿いに多くの人が暮らしていたんですね。

IMG_3756

IMG_3769

IMG_3768

IMG_3775

IMG_3776

IMG_3777

IMG_3779

IMG_3780

IMG_3782

石鎚山へ

IMG_3650

 

「明日行くか!」と、急きょ石鎚山へ登ってきました。土小屋登山口まで車で3時間ほど。頂上社まで2時間半ほどの整えられた登山道。岩場を登る「鎖場」がありましたが、いずれも迂回路が整えられていたので、おかげさまで安全に登ることが出来ました。

今も山岳信仰が残っている石鎚山。以前、旧石鎚村という人里離れた山奥で暮らす老夫婦の話を聞いて、いつか石鎚山を見てみたい思うようになりました。

まだ農家で修行中の頃だったか、独立した年だったか、はじめての道を自転車で行きました。昼過ぎに本山町を出て、大川村、本川村と渓谷沿いの道を行き、瓶が森林道の入り口に着くまでに4時間、薄暗い霧雨の中を更に2時間走りました。暗くひんやりとした古いトンネル、一面の笹原、路肩が崩れ落ち数十メートルに渡り宙ぶらりんになったガードレール。ここは滅多に人が来ないところなのだろうか?18時近くなり、まだ登り続けているとき、得体の知れない糞の塊ががぼたぼた落ちていました。人のものよりも格段に大きく、そもそもこの山にどんな獣がいるのか知らなかったので熊かと不安になりましたが、食料も体力も残り僅かで日暮れ間近、前に進むより他なく、できるだけそこから離れ、どこか落ち着けるところはないか探しました。たしか、土小屋方面という看板を過ぎたところで止まり、依然雨の降る中、大量のブヨに襲われながらテントを張り、湿った寝袋にくるまって寝たのがはじめての石鎚でした。

IMG_3651

IMG_3661

こんなところに重い階段をどうやって運んで設置したのか、そんな事ばかり気になります。一方、嫁はここまでしてもらっても怖い様子。

IMG_3652 IMG_3653

IMG_3663 IMG_3668

 

竹の伐採

IMG_3175

畑の南西を覆っていた竹薮を昨年から伐り進めています。少し、向こうが見えるようになってきました。

電線越しに畑にかかっていた杉は枝が片方に張って重心が偏り、とても自分で伐ろうと思える代物ではありませんでしたが、遂に今年伐りました。無事に倒れてくれて本当に感謝。

 

IMG_3194

竹を伐るのもやはり、ひやっとすることが多く、伐り方や後始末がわるければ下の集落まで落ちかねないので、常に緊張を強いられながらの作業はとても疲れました。8日かけて100本以上伐り倒し、キュウリの支柱も確保できました。

IMG_3182

畑と竹薮の境にあるこの水路、以前、人が落ちて大事故になったらしいのですが、今でもこのタイプのが至る所に作られています。地元の人には、芥を取るためでも絶対降りたらいけないと言われています。一度足を滑らせたら、止まるためのとっかかりは何処にも無いのです。

IMG_3201